紀谷昌彦『南スーダンに平和をつくる』

晴。
家電メーカーでカセット→MP3 ラジカセを作るという、超具体的な夢を見る。何なんだ、「課長 島耕作」ですか?(笑)。まったく夢は謎すぎる。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十四番 K.387 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。この曲を聴いて感動しないでいるのはむずかしいな。吉田秀和さんはモーツァルトハイドンのような「現代音楽」の作曲家ではなかったと洵に適切なことを仰ったが、この「ハイドン・セット」はモーツァルトがもっとも「現代音楽」した曲集であり、またもっとも苦労して書き上げた曲集でもある。だから、敬愛するハイドンに有名な献辞をつけて dedicate したのであるが、それにしても何というすばらしい曲集であろうか。つい小林秀雄の言葉が思い出されるが、そういうどうしようもなくアナクロなことは自分の胸の内に秘めておくことにしよう。それから、エマーソンSQ はだいぶ CD でもっているのだが、NML にもいっぱい入っているな。バッハの平均律クラヴィーア曲集弦楽四重奏版とか、知らないのも入っている。これらも聴いていきたい。

モーツァルト:弦楽四重奏曲第14番&第15番

モーツァルト:弦楽四重奏曲第14番&第15番

 
雨が上ってきれいに晴れて、世界がじつに美しい。これ以上のことは望外であると思う。人間が滅びたあとも、世界はかく美しいのだろう。それでよい気がする。


ブリテンの「イリュミナシオン」 op.18 で、ソプラノはシルヴィア・マクネアー 、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NML)。うーん、微妙だ…。僕は日本人では数少ない小澤征爾の大ファンだと思うが、これはどうも…。何かへんな映画音楽みたいで、こういう言い方はあまりしたくはないのだけれど、ダサいという他ない感じがする。マジメ一本の小澤征爾には、合わない気がしてならない。それに、何でソプラノなのか、これがいちばんわからない。自分にはこの曲は、テノールしか考えられないのだが。あまりにも違和感が大きい。もっとも自分がどれだけこの曲がわかっているかと言われると、自信はないのだが。大好きなだけで、ランボーの原詩も翻訳でしか知らないし、フランス語も当然ながら聴き取れない。何もわかってないと言われれば返す言葉のない気がする。でも、とにかくこの曲には、聴いていて鳥肌の立ってくるような鮮烈さがあると思うのだが…。

Sheharazade

Sheharazade

 
あまりにもいい天気なので外出。県境を越えて初めて江南のアピタへ行く。まあいつもと同じくミスドなのであって、さみしいおっさんが行くようなところは他にあまりない(笑)。
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ミスタードーナツ アピタ江南西ショップ。クリームイン・マフィン ソイラテ+ブレンドコーヒー410円。あれ、ミスドのコーヒー、いつの間に 194円になったのだろう。前は 270円だった気がする。おかわり自由は同じ。ってみみっちい話だなあ。ここのフードコートは狭くてちょっと落ち着かない。
紀谷昌彦『南スーダンに平和をつくる』読了。新書本。著者は外務省出身で、2015年から 2017年の南スーダンの日本大使を務めた。一読、どうももやもやする。これ一冊読んでも、南スーダンの現状が頭に残らない。まあそれは自分の能力不足もあろうが、どうも私はこんなことをした、日本は、日本人はこんな貢献をした、あれもした、現地の人たちに感謝された、日本すごいという話の羅列な気がする。まあそれはそれでよいのかも知れないし、そもそも本書はそういう本で、わたしがないものねだりをしているだけかも知れない。しかし、そんなにうまくいったことばかりなのだろうか。自分は国連に微々たる援助をしているので、事務局からこんなことをした、こんな問題があるからもっと協力してくれというようなメールや封書を頂くのだが、その中に南スーダンはなかっただろうか。日本の貢献はすごくて、南スーダンはすばらしい国になった、問題なしなのだろうか。しかしまあ、あんまりいじわるなことをいうのはやめよう。確かに日本は多大なる貢献をしていて、日本スゴイなのだろう。本書には何箇所か、「これでは日本の顔が見えないので、こうやって日本の援助が知られるようにした」というような話が出てくるが、どうも釈然としなかったのはわたしがおかしいのかも知れない。そもそも、どうして南スーダンがそんなひどいことになったのか、それも本書ではあまりわからない。いまどうなっているのかもわからない。わたしは、読む本をまちがえたのだろうか?
南スーダンに平和をつくる  (ちくま新書)

南スーダンに平和をつくる  (ちくま新書)

なぜか何だか段々腹が立ってきたので書くが、自分は著者にいいたいことは何もないけれど、ちくま新書の編集者にはもっとマジメにやれといわずにおれない。筑摩書房の名が廃るぞ、まったく。

橋本治小林秀雄の恵み』を引き続き読む。本当は今日一気に読み切るつもりだったが、あまりにもしんどくて無理だった。なんとか第八章まで読み終えた。本書がとてつもない本だということはもはや自分の中で確定した。橋本治小林秀雄との格闘は次第に橋本治に余裕が出始め、小林秀雄のごまかしや間違いがいくつも剔抉されている。いや、しかし本当のところをいうと、正直言って自分のレヴェルを遥かに越えていて、自分に正確な判断は無理だ。知識も教養も能力も、何もかもわたしには足りない。ただ、橋本治の論旨はまったく論理的であり、説得的である。それを見てわたしはそういうわけだが、橋本治には小林秀雄を論破したいということは、あまり重要でないようだ。ただ、取り憑かれたように小林秀雄について、本人もどこへたどり着くのかさっぱりわからず、執拗に、粘り強く批判と理解が書き続けられていく。わたしは、このようなしかたで本を読んだのは本当にひさしぶりだ。自分の能力不足にもかかわらず、わけもわからず丸ごと受け入れる他はないという体験は。それこそ小林秀雄体験以来のことかも知れない。そんなで橋本治がどこへ行ってしまうか見届けたかったのだが、今日はとにかくもうムリ。
 それにしても、本書の刊行は 2007年であるが、この本はどれだけ理解されたのだろうか。まさか無視されたとは思えない、それほどの重要度をもった本であるが、わたしの管見からは本書への言及はまるで記憶にない。敢えて文芸評論として見ても、ここ 10年ほどで最高の成果であろう。わたしの言っていることが大袈裟かどうか、一読すれば直ちにわかる筈である。とりあえずわたしの管見を恥じておく。