大森荘蔵『物と心』

晴。
音楽を聴く。■ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第一番op.15(アルゲリッチ、アレクサンドル・ラビノヴィチ=バラコフスキー、参照)。名演。■モーツァルト:レクイエムK.626(カラヤン1961)。ラクリモサまでしか聴いていない。六〇年代のカラヤンに、つまらない演奏はあるのだろうか。

あまり調子がよくないので、Lubuntu の公式サイトをつらつら訳す。未熟な訳ですが、そのうちアップロードします。→こちら
大森荘蔵『物と心』読了。何だか頭にさっぱり入ってこない。ここ数日読んでいたのだが、眠くなって沈没ということを繰り返していた。まあ自分の頭が腐っているせいもあろうが、あんまり頭に入ってこないので、第十二章からは筆記用具を片手に読んでみた。すると、あることがわかりましたよ。
 まず、大森荘蔵ジャーゴンの導入がきわめてわかりにくい。第十二章のキーワードを、自分がそうと思ったものについて書いておく。論理。心理法則。事実法則。規範法則。論理法則。時間的経過。時間的関係。言語規則説。非主題性。外延性。閉鎖性。未定義記号。論理語。記号命題。直感幾何学。純粋直感空間。純粋概念。純粋直感。構成。事実世界。接続詞。接続。基底。基底命題。まあ、こんなものであろうか。別にむずかしい言葉はないが、さて、第十二章を普通に読んで、これらがキーワードであることがどれだけわかるか、是非やってみて頂きたい。さらに注意して頂きたいのは、これらがキーワードで、他のよく似た概念がそうでないという、そのちがいである。大森荘蔵のキーワードは突然出てきて、最初それがキーワードだとじつにわかりにくいのだ。と自分は思うのだが、それはお前の頭が悪いせいだと言われれば、黙って引き下がろう。
 同じようなことだが、本書ではある意見が書いてあっても、それが大森荘蔵自身の見解なのか、他人の意見なのかが、これもきわめてわかりにくい。これは大森荘蔵の意見かと思って読んでいると、他人の意見であったり、というのが多すぎる。もっと書き方に工夫があってもいいと思うのだが。
 哲学的漫談。第十三章から抜粋する。「わたしが去年の海辺を『思い出す』とき、去年の海辺自身を思い出しているのであって、それと並んでいま一つその記憶なるものを思い浮かべているのではない。」(p.412)まあそうかも知れないが、僕個人はこういう「哲学」にまったく興味はない。「過去は過ぎ去ってもはやない[二字傍点]ものか、あるいはまだ在る[二字傍点]ものか、と。それは呼び名の迷いではなく、生き方の中の迷いなのである」(p.414)著者の結論めいた部分であるが、これは何が言いたいのか。「同様に、瞬間は持続の部分でも要素でもなく、その切り口または位置時刻なのである。つまり、持続あっての瞬間なのである」(p.416)こういうのはいわゆる「中二病」ではないのか。言葉遊びとどこがちがうのか。「しかし、われわれはまさに時と存在の迷いの中に生きているのである」(p.418)日めくりカレンダーにでも書いておいたらいいのではないか。
 第十四章も苦労して構造解析したが、面倒なのでもうやめる。以上を読んで「これは自分の哲学だ」と思った方は、是非読まれたらいいと思う。(AM0:38)

物と心 (ちくま学芸文庫)

物と心 (ちくま学芸文庫)


何だか日本でものすごく注目されてしまったピケティだが、胡散臭い解説を請け売りするより、訳者である山形浩生によるアンチョコを読みましょう。まあ本当に山形氏が正しいのか自分では判断のしようがないが、これは信用度の問題です。山形氏の頭のよさを信用しているわけです。
 しかしピケティが日本でベストセラーになるとは…。最初は買わずに図書館が入れてくれるのを待とうかと思ったのだが、仮に入れてくれたとして、これでは予約してもいつ自分の番になるかわからないなあ。見栄のためにも買うか…。