未明起床。
やわらかそうな(?)白い雲で空が覆われている。
やはり、富の再分配を積極的に行っていくしかないように思える。それも、一国の内部だけでなく、世界的な規模で。経済的なリベラリズム(あるいは、いわゆる新自由主義)は、「放っておけば格差は拡大する」という資本主義の問題点、大きな欠点を放置することになる。格差の拡大は、既に実際に社会不安、社会の不安定性を招くまでに至っている。それを容認するということは、「下層民」を暴力で弾圧することに繋がっていくだろう。
あとは、精神面では、概念以前の、「他人の存在」を受け入れていくこと。他者とひとつの場所を共有し、同じ人間であることを受け入れること。とりあえず、想像力とか、他人の身になってみる、なんてことは措いておく、それはつまるところ「概念」「知性」の問題だからで、そんなことはあとでいいのだ。
「富の再分配」に際して問題になるのは、「自分には能力があるのだ。そういう人間が自由に能力を発揮し、富を独占して、何が悪いのだ」というリベラリズムの思想である。これはきわめて古くからあるひとつの思想のタイプで、根本的に論破することは実際にはむずかしい。原始的ないわゆる人間の自己中心的な「エゴ」であるが(リベラリズムはエゴイズムに親和性が高い)、この二十一世紀になっても、このようなプリミティブな感情(=思想)がますます噴出し、世界を覆っている。また、悪いことに、国家と資本主義はかかる貧しい感情(=思想)を助長・強化する。
日本なんかでは、「稼げる人間は偉い」という考え方が強いしな。
でも、日本人の「他人との間の壁が薄い」というのには、可能性がある。日本人の間の「ATフィールド」は弱い。それはいってみれば西洋的自我が弱いということだから、個人としては苦しいし、心の病の元ともなるが、やはり、まともな人間(?)にはそういうところが(本当は)必要なのではないか。それが、他人を受け入れる、ということである。もちろんそれは、自分を出さない、消してしまうことではない。
概念という「ATフィールド」で保護された西洋的自我を、いわばメルトダウンさせること。
しかし、問題は経済的格差だけでなく、「知的・文化的格差」もある。でなければ、大金持ちの新自由主義者を、「下層民」が熱狂的に支持した例えばアメリカ大統領選の結果を、説明できない。
「知的・文化的格差」ねえ。嫌な言葉だな。何で「知的・文化的に優秀である」ということが、こんなに重視されるのか。皆んな、バカでいいじゃないか、バカになるべきなんだよ。その意味では、「かしこいインテリ、むかつく」という「下層民」の直感は、正しすぎるほど正しい。かしこい人間の心が貧しいというのは、別にふつうのことである。感情が、貧しい。
でも、インテリだけじゃなくて、我々「下層民」の感情も貧しかったりする。結局、「下層民」もじつはインテリ化していたりして、とにかく「他者を受け入れ」られなかったりするんだよ。問題は、そこだな。惻隠の情、これがなくなったら、人間はどこへ行くのか?
インテリ化した我々大衆という、この世の地獄。
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隣の川、一昨日撮ったもの。
家事で使う水が痛いほど冷たくなったな。
昼。いい天気、風は強めだが。
老母の病院での検査が時間がかかりそうということで、老父と丸亀製麺イオンタウン各務原にて昼食。肉玉ブッカケうどん+いか天960円。前は丸亀製麺、うまいと思っていたけれど、肉がいまいちだし、汁もあとで味が舌に残る。所詮は安もの。でもまあ、この程度で満足できないことはないし、それに、待たされないしな。
インスタントコーヒーを飲みながら、長時間ぼーっとネットを見たり、いろいろ考えたり。時間のムダかも知れないが、そんなことをいったら、わたしの人生そのものがムダかも知れない。もっとも、ネットでイヤな思いをしない場所は限られていて、しかたがないから、無意味に自分のブログを読んだりする。
「本はねころんで」さんとか「一朴洞日記」さんとかいった、畏怖すべき年配の方々のブログに、勇気を頂いたりしている。あと、無名の二十代の若い人たちの極一部にも、よい感覚の萌芽が見られて、このまますくすくと伸びていってくれないかなとか、わたしごときが何様なことを思ったり。自分も含めて、概して四十代、五十代はちょっと希望がもてなさそうかな。
窓に日差しがあたって、レースのカーテンが明るく光っている。