こともなし

雨のち晴。
朝からモズが高鳴きしている。最後のつくつく法師。
 
ウチの彼岸花が咲いたので、近所の毎年の場所はどうかと思って見てきた。

結論からいうと、咲いていなかった。去年のブログ記事を見ると 9.11 に咲いているのを確認しているので、今年は遅いようだ。なお、まだとても散歩できるような気温ではない。

ヒレタゴボウ(鰭田牛蒡)?



アレチヌスビトハギ(荒地盗人萩)。
 
ガス瞬間湯沸かし器が古くなったので、ガス屋に来てもらって新しいものに換える。
 
 
昼。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ポン・デ・シュガー青りんご風味+ブレンドコーヒー451円。
『甦えるフレーブニコフ』第四部、第二十一章まで読む。あと一回くらいで終えられるか。いまのような凡庸な白ちゃけた時代、狂人のように詩と思想を追求したフレーブニコフの生に、いったい何の意味があるのか、などと疑問が浮かんでくる。我々はことごとく平均化し、奴隷のように暮らしている中、革命的でピュアきわまりない聖狂を自分の内に収めるのは、ひどくむつかしいのだ。そのようなシニシズムを克服することは、可能か? 偉大でない我々に、偉人の意味は何なのか? 見えない鎖に囚われ切った我々に、精神の自由は可能か?
 
まだ酷暑35℃、駐車場では42℃だった。残暑がきびしすぎる、信じられん。
 
 
轟孝夫『ハイデガーの哲学』第三章「中期の思索」を読む。ここでのハイデガーの思索はわたしにはかなり納得のいくものだ。彼のいう「ピュシス(自然)」は、わたしが(別に厳密にではないが)「世界」と呼んできたものに近い。でも、ハイデガーは「ピュシス」を歴史化・人間化しすぎるようにわたしには思える。また、ハイデガーは「言語を『世界』の生起そのものと捉え」(p.222)ているそうだが、ここはワンクッション欲しいところだ。言語を世界と直接結びつけることはできない、世界は言語以前に、それ自体としてある程度おのずと分節化されている。井筒俊彦なら、それを「コトバ」と呼んだであろう。そうでなければ、あまたある言語が互いにある程度翻訳可能であるということは、不可能である。そしてその「コトバ」として言語以前にあらかじめ分節化されたものが、恣意的に各言語において言葉と対応するのである。
 
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夜。
花咲くいろは』第18話まで観る。喜翠荘、存続していけないフラグ、立ちまくっているな。どう終わるんだろう。
 
最近、YouTube では玄侑さんの公式動画を時々観ている。このところ物はあまり書いておられないようで、動画に力を入れられているのかな。一回ごとに、人生相談と、自由な語りが交互にアップされている。根底には禅の考え方がバックボーンとしてあるのだが、表面的にはそれがあまり強調されることはない。わたしは観ててさすがだなーってよく思っているのだが、皆さんなかなかそうは思われないようで、どれも視聴回数は1000回(以下)程度、2000回まではいかないといった感じで、全然観られていない。ほーんと、おまいらダメだなーってね、思うよわたしは。