曇。
朝起きると、意識の底の方がゴミ溜になっていて、その中にいるのを感じる。ネット中心の暮らしで、ネットのノイズを大量に吸収・消化しようとしているわけだが。こんなことをして、何かしら意味があるのかとも思うけれども。
昨晩は暑くて窓を開けて寝た。
スーパー。
ツバメが飛ぶようになって、あっと思う。
基本的に現代は山口昌男の「中心と周縁」理論でいまだに切れると思う。トリックスター。王殺し。さても現代の特色はいまだに「新しさ」であり、成熟と永遠には向かわないものだから。
昼から県営プール。暦ではどうだか知らないが、もう初夏って感じ。車外は29℃だった。
プール、ひさしぶりだな。体のためというよりは、精神の健康のための方が大きい。プールへ行くのがめんどうなときほど、行った方がいいのは経験でわかっている。
今年初めて部屋の冷房を入れる。
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十四番 op.131 で、演奏はクァルテット・エクセルシオ(NML)。ベートーヴェンはもはやオワコンなのか? むしろ二十四世紀のための音楽なのではないか?
クァルテット・エクセルシオはいま日本を代表するカルテットといっておかしくないとわたしは思う。録音で聴くかぎりは。バッハのリュート作品
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ウチのヤマブキ(山吹)。八重である。
ウチのツクシカイドウ(海棠)。
ブログをちょっと読み返していたら、結構いいことを書いていたので再録する。
確かに世界は既に言葉のように分節化されている。井筒先生なら、それを「コトバ」と表記したかも知れない。しかしそのような分節化は、やはり言葉ではないのだ。というより、それを言葉で、意味で捉えた瞬間、世界そのものは失われて没落し、意味だけが残る。
2022.3.14.
言い換えれば簡単なことだ。我々はきれいな花を見る。しかし、それを「きれいな花」と言葉で捉えた瞬間、われわれはもはや世界とそこに存在するその花を見ておらず、ただ意味を捉えているだけである。
夜。
『Re:ゼロから始める異世界生活』(2016)第11話まで観る。いやあ、おもしろすぎてここまで一気観してしまった。よくできたエンタメだなあ。五時間くらい観たので、さすがにここまで。(02:14)