社会科学化した生

曇。
 
社会科学化した生。我々は生きることから概念を抽出するのではなく、概念によって、概念の中で、概念に合わせて生きるようになってきている。生=概念。概念という型に嵌めた生。人文学の凋落は、そういう時代思潮と関係があるだろう。人文学は、まさにその、生きることから概念を抽出するものであるからだ。
 
いまの若い人たちが感じているわけのわからない息苦しさも、生のすべてが概念化されていく息苦しさという気もする。人間には一切の「言葉」から逃れていこうとする傾向というか、衝動があると思うが、それは現在ますます無意識の領域に押し込められているだろう。「正しさ」というのは「言葉」であるが、「正しさ」の専制に我々は「言葉」では対抗できない。しばしばそれは暴力という形で噴出し、そして権力による暴力で鎮圧される。かしこい権力は、そのような間歇的な暴力の噴出を、ガス抜きとしてある程度許容していくにちがいない。真綿で首を締められるような、権力による巧妙な管理。
 
ただ日本では、そのような暴力の噴出はあまり他者へ向かわず、自分へ向かう傾向が強いように見える。息苦しさを社会や他人にぶつけるよりは、自分を壊す方向へ向かう。特に、社会への抗議、という形ではあらわれない。
 

 
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。部屋から動きたくない気持ちもあるのだが、部屋でインターネット(『攻殻機動隊』の草薙素子はネットは広大だといったが、まさにそのとおり広大で、そしてわたしの行けるそのほとんどの場所が荒涼たる不毛の地だ)と向き合っているのもウンザリするので。おいしいコーヒーだけで救われる気がする。
 パク・ソルメ『もう死んでいる十二人の女たちと』(邦訳2021)を読み始める。斎藤真理子訳。なかなかおもしろいが、特に韓国の小説という感じはしない。語られている場所は韓国だけれど、同時代の日本の小説(わたしはよく知らない)だとしてもあまり違和感を覚えないように思える。閉塞感(?)は、似たようなものだ。
 
帰りに肉屋。ドラッグストア。ネズミが出るのだが、正露丸の匂いをネズミが嫌うというので(ホントかね)、正露丸を買ってこいといわれる。外気33℃、九月も半ばなのに、ちっとも涼しくならない。
 
 
轟孝夫『ハイデガーの哲学』第二章「前期の思索」まで読む。一般に主著とされる『存在と時間』が読まれる。著者は、ハイデガー後期の思想から『存在と時間』は読まれねばならない、現在流通する「読み」は、『存在と時間』プロパーで読まれているので、きちんと理解されていない、というようなスタンスである。まあ、本書を読めばわかるから、詳しくは書かない。
 それにしても、である。ハイデガーの哲学は冥い。彼は、あまりにもクソマジメすぎやしないだろうか、と思ってしまう。キサマらは堕落している、それはイカンとぐいぐい迫ってくる。いや、わたしだってクソマジメな人間であり、暗いことばかり書いているが、それにしたってハイデガーさんにはちょっとついていけないものを感じてしまう。我々ふつうの(?)人間は、そこそこよく、そこそこ悪い中途半端な存在であり、敢ていえば、それだからよいというところもあるのだ。ハイデガーは我々のクズっぽさを糾弾して已まないのだが、それは誰もがついていける道ではない。
 

 
夜。
『嫌な顔されながらおパンツ見せてもらいたい』(2018)第6話(最終話)まで観る。一話5分のショートアニメで、短いので観てみた。クソくだらねー笑。なんと2期があり、3期まで決定しているという(後記。3期は既にブルーレイで出ているらしい)。いや、ほんと、アニメって下らなくて、まともな大人の観るものじゃないよね。というアニメが、わたしは大好きだ。日本人、こんな下らない国民は他にないと思う。世界平和だな、これは。マジメな人は見ちゃダメ。
youtu.be
2期(2019)も観た。これも全6話。マジ下らん。