山口昌男演劇論集『宇宙の孤児』 / 露伴の「連環記」について

日曜日。朝、短時間雪。のち晴。
 
スーパー。
 
昼ひさしぶりにカルコス。2022.12.17 以来なのか。オカタケさんの新刊文庫本を買おうと思ったのだが、あらず。石牟礼道子さんの『十六夜橋』(ちくま文庫)など、四冊買う。ぶ厚いヘーゲル講談社学術文庫などもあり、かつてならまちがいなく買っていただろうが、もう読む気力がなさそうな気がして買わず。それに、文庫本でもこういうのは高価になってしまったしな。
 
珈琲工房ひぐち北一色店。本日のコーヒー(日替わり)はクセの強い味と香りで、なかなか変わっていた。
山口昌男の演劇論集の続きを読む。読むのがしんどく、ようやくあと四分の一くらいまできた。山口の掘っているところに、わたしの生命力の流れがない。昔は山口昌男というと、博覧強記の息もつかせぬ開陳がカッコよかったわけだが、いまではへーと思うだけ。でも、わたしの方がいけないというか、衰えてしまったのかもな。山口昌男は理論はどれもそんなにむずかしくないし、ちょっとワンパターンというか(つまるところ、撹乱による世界の活性化)、いまでは常識化したそれという感じを受けるのであり、やっぱりその理論を支えている個別の素材のマシンガン的な速射が特徴だったと思う。あと、世界中を飛び回り、何でこんなところに顔を出しているのだろうという神出鬼没ぶりは、素直にいまでも感心させられる。その素朴な自慢も、なかなか悪くない。いや、ほんとにすごい人なんですけどね、山口昌男は。昔の浅田さんなど、山口昌男のペダントリーと神出鬼没ぶりが、理想のひとつだったと思うのだが。
 
現在は「世界の活性化」というよりは、コンテンツが快楽中枢を直接興奮させてくるというような技術が、ものすごく進んだと思う。脳内麻薬を分泌させていくテクニックというか。だから、我々は常時コンテンツという麻薬漬けになっているようなものかも知れない。それから、高度資本主義による欲望の整流という問題。多数多様な方向への炸裂が減っていき、次第に欲望が決まった方向に流れるようになっている。世界中で同じコンテンツが同じように消費されるようになってきているわけだ。
 
図書館から借りてきた、山口昌男演劇論集『宇宙の孤児』(1990)読了。承前。しかし山口昌男から見ると、現代の優秀な学者たちはクソマジメに啓蒙するばかりで、我々バカな一般人には全然おもしろくないな。また、一般人もクソマジメすぎて、全然おもしろくないような気がする、というとブーメランのように自分に帰ってきますね。あーあ。

 
夜。
『なみだふるはな』、藤原氏がちょっと読めなかった。挫折。
 
 
あるブログエントリを読んでいたら、露伴の「小説」が貶されていた。

ただ、いずれも説明がくだくだしく小説になりきってない。また固い表現と柔らかい表現が混在していることもあり、モチーフの面白さを幾分か殺いでいる。とくに「連環記」がそうである。

「連環記」とはなつかしいので、岩波文庫版で何十年ぶりかに読み返してみた。かつて幾度となく読み返した「小説」である。いや、件のブログエントリに「これはエッセイの筆法であろう」とあるとおり、エッセイと小説の融合とでもいうべき、露伴らしい、香り高い作。実際、岩波書店の『露伴随筆』最終巻に収められているとおりだ。和漢の絶妙に織りなされた、「固い表現と柔らかい表現が混在している」、日本語の最上級の達成のひとつであろう。西洋由来の「小説」として読むよりは、その見事な文章をまず味わうものであるように、わたしには思われる。そして、慶滋保胤と大江定基の出家したのちの、その「心の純粋さ」のようなものが歴史にちらりとあらわれているのに、露伴が深く感じ入っているのを読み取るべきではあるまいか。

いま露伴が読まれないのは、「小説家」と見做されているからであろう。まあ、露伴自身もみずからを「小説家」としていたわけであるが、本当にそれだけであるならば確かに評価に値するまい。娘の幸田文の方が、すぐれた小説家である、ということになる。しかし、わたしはそうは思わない。