自己・妄想・自己同一性

曇。
 
今日は朝から大垣なのに、ぐうぐう寝ていて起こされて飛び起き、睡眠の後始末もせずに家を出る。ずっとぼーっとしていて、運転している間じゅう、「自己」に関する切れ切れの想念というか妄想というか、そんなものが、頭の中で転がっていた。わたしは仏教的な「自分など存在しない」という考え方がおおざっぱには好ましいのだが、実際はとてもそこまでいけないし、ひとりで生きているわけではない以上、自己同一性というのはどうしても他人や世間や社会から要請されてしまう。今日など、睡眠の後始末をしていないので、湧き上がる妄想が「自分」とでもいえそうだ。しかし、想念や妄想は、勝手に生じるというもので、自己同一性の要請に従って生産するというものでもない。だいたい、「自分など存在しない」といっても、「自分という物語」を作らなくて、我々は生きていけるわけもないだろう。
 
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー415円。大垣ショップ、九月のおしまいまで改装工事で休業か。
 藤本和子さんの『砂漠の教室』(河出文庫)を読み始めるも、うまく入っていけず、眼を閉じてぼーっとしていた。ピリスのバッハ(少し濃い)を聴きつつ帰る。わたしは、人間的な愛嬌みたいなのに乏しいと思う。とかなんとか、自己的妄想。どうせ妄想するなら、女の子の妄想でもすればいいのに、っておっさんだからキモいな。
 
このブログ日記が、自分の自己同一性を担保しているのかも知れないとかも、思う。まあ、ただの未熟者修行日記ですけどね。
 
カントの超越論的統覚は妄想か。というか、妄想がなくなっても、超越論的統覚は存在するのか。超越論的統覚と自意識は同一視してよいのか。東洋は、そのあたりはどう捉えたのだろう。井筒先生は「意識のゼロ・ポイント」という言い方をされていたが、あそこまでいくといまの自分などでは体験のしようがない。
 
いずれにせよ、自分などは、存在と生命の大海の中から浮かび上がってきたひとつの泡にすぎず、ほんの一瞬存在して、あとかたもなく消えてゆく何かにすぎない。しかし、それに物語と意味を見出さずにはいられないのが現在人なのかも知れない。
 小林秀雄に「無常といふこと」という有名なエッセイがあるけれど、いまでは、日本人ですら「無常」という深い感覚から遠ざかってしまったのかなと思う。「無常」はあはれであるという、かなしみに近い、感情そのものといっていいのだろう。高度な記号的知性は感情を幼稚化する、というと、また別の話になってしまうか。
 

 
昼は焼きそばを作る。
 
そういや帰ってくるとき、国道21号の中央分離帯ムクゲらしきが咲いていたのに気づいたのだが、ムクゲってこんな時期に咲くっけ?
 
ごろごろする。
夕方、ドラッグストアとスーパー。暑い。
 
NML で音楽を聴く。■バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはフリードリヒ・グルダNMLCD)。