こともなし

日曜日。晴。

中国思想における「絶対悪」と米中対立 - 梶ピエールのブログ

さて、このような思想における「絶対悪」の問題が、いま、現代中国の問題を考える上でなぜ重要なのか。いうまでもなく、現在の米中対立の背景の一つである、中国の人権問題における西側諸国の厳しい批判の背景に、この問題に関して、習近平をリーダーとする中国共産党が一種の「絶対悪」に近い役割を果たしているということが、暗黙の了解として共有されているからである。

梶谷先生のブログで、中国には古来「絶対悪」の発想がない、ということに関する論述を読んで、大袈裟にいうとショックを受けた。ここではわりと単純に「東洋」という言い方がされているので、それに対する「西洋」という言葉を使うと、西洋的知性(日本のインテリも含むかも知れない)ではいまでも「絶対悪」なんて幼稚な発想がふつうに使われているのだな。「超越絶対神」(=絶対善)の存在から「絶対悪」が出てくるならわかるが、「科学時代」のいまでもそうなんだ。わたしの認識不足でした。それから梶谷先生は「神」の語を使っておられないが、それはどうしてなのか。「超越性」というのはゴマカシでしょう。
 相手を「絶対悪」と見做すということは自分が「絶対善」であるという立場を避けることはできないのであり、「決して間違わない自分」というのは批判的精神の真逆ではないだろうか。科学的にいっても、間違う可能性(反証可能性)を議論にあらかじめ組み込んでおくというのが科学的精神ということは、科学の基本であろう。
 わたしは「正誤」と「善悪」の問題を混同していますかね。でも、元の議論でもちょっと混同気味じゃないでしょうか。習近平が「誤」ではなく「悪」というのなど。

ま、わたしは学者じゃないし不勉強だから、細かい議論はできないのですけれどね。

午前中、二回目のコロナウィルスワクチン接種。ウチはこれで全員ワクチンを接種し終えた。しかし、暑いな。空は夏の雲。
今日はおとなしくしていよう。

長時間、昼寝。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。
 
しかし自分はいつも誰の何の役にも立たないことをエラソーに書いて、忸怩たるものがあるな。ま、こういうバカが少し居るのも、よい気がしないでもないのでやっている。多様性って善なんでしょ?笑 未熟者修行の日々。