小坂国継『西田幾多郎の哲学』

晴。
寝ている間、寒かった。体が冷えているのか。
 
ごろごろうとうとする。
人跡稀なところにたどり着いたのか。ここはどこだろう。
 
昼寝。
 
 
小坂国継『西田幾多郎の哲学』第一章「純粋経験」、第二章「自覚」を読む。西田の基本的な世界は、初期の『善の研究』から晩年まで、変わっていない、というのはおもしろい。ただ、その語り方が変わってくるのだと。本書に「純粋経験生きること純粋経験語ることはけっして同一でない」(p.59)とあるが、なるほど、わたしは「純粋経験を生きること」には興味があるが、「純粋経験を語ること」にはあまり興味がないようだ。(ただ、「語ること」ができないというのは、わかっていないということでもある。)なので、西田の発想が形而上学的になる、第二章「自覚」は、正直さほどおもしろくない。『善の研究』でシンプルにまとまった世界が、「自覚」を語りだすと「説明のための説明」となって、いたずらに煩瑣になってくる。しかし、この「自覚」の試行錯誤を経なければ、「場所」の概念に西田が到達することはなかったわけだ。
 
西田幾多郎の哲学』第三章「場所」、第四章「絶対無の自覚」を読む。西田の「場所」は「有の場所」「意識の場所」「絶対無の場所」(p.119)などと分節化されているが、これはちょっとおもしろくない。むしろ、「絶対無の場所」だけでいいのではないか。西田は「絶対無」=「心の本体」(p.127)としているそうであるが、心だけが存在するのである。「絶対無=心」は、知識の対象にはならない、ただ「場所」として、「映す」という作用(本書では「意味」とあるが、勝手に「作用」と書き換えた)のみが残るのである(p.137)、というのである。わたしは、これで充分だと思う。「絶対無の自覚」は宗教家にまかせるしかないと西田はいっているそうであるが、我々凡人であっても心の働きは偉大な宗教家と何ら変わることがない。心の映す作用は、まるで同じことなのである。
 本書の p.137-138 の記述はとてもよい。含蓄が深い。
 
西田幾多郎の哲学』第五章「絶対矛盾的自己同一」、第六章「逆対応」を読み、本書読了。ここに至るとまだわたしがあまり考えていないことなので、大いに参考になった。ひとつだけ、「行為的直感」について。「西田が行為的直感を説いている箇所を仔細に検討すると、一見、それが行為即直感・直感即行為のような行為と直感の相即的で相補的な関係を説いているように見えて、実際はもっぱら直感即行為の側面に力点をおいて説いていることがわかる。そこに西田の直感主義が鮮明にあらわれているといえるだろう。そしてこのような直感主義は、たびたび触れたように、『善の研究』以来、西田に一貫した主張であった。」(p.168)これはとても納得できる。その意味でわたしも、直感こそが行為を生むと思っている。わたしには、直感はいわば「世界の裂け目=リアルの噴出」のように実感されるが、これはあまりよい言い方ではないかも知れない。直感は「知性の流動性」によりなぜかわからないが生じるもので、その意味では「行為即直感」と、いえないこともないのだろうが。
 もうひとつ、西田哲学は「芸術や宗教の世界を説明するには都合がよいが、社会的・政治的実践を説明するには必ずしも適していない」(p.173-174)と本書ではいわれているが、そうなのかな。西田哲学は「永遠の相の下の観想」「永遠の今の自己限定」であり、メタモルフォーゼであって、発展性が乏しいと見做されてる。しかしわたしは、「永遠の相」「永遠の今」というのは当然過去と未来も含む「今」なのであり、時間的発展もまた含んでいる筈であると思う。いってみれば、宇宙の全歴史を「法界における永遠の今」と見ているのだと思う。こうなると、正直いってわたしのレヴェルを超えているが。

いやあ、本当におもしろい哲学本だった。いま、哲学にはあんまり興味をもてないのだが、それにもかかわらず、である。同じ小坂国継氏による『西田哲学の基層』(岩波現代文庫)もかつて読んでいるようだが、じつに中身のない感想文しか過去記事に書いてなくて恥ずかしい。さて、これも再読すべきか、どうか。
 
夜。
YouTube で SAO 動画を観る。マザーズ・ロザリオ篇。