こともなし

曇。

午前中、ごろごろぼーっとして終える。

井筒先生の『意識と本質』の第二章は「本質」概念の二通りの意味について考察されてある。その二通りは、イスラム哲学において明確に区別され、個々の事物そのもののリアリティを指す「フウィーヤ」と、その個物を個物たらしめる一般的永遠的なリアリティを指す「マーヒーヤ」の名で呼ばれている。詳しくは同書を参照されたいが、以前にも軽く指摘しておいたとおり、この第二章は詩論としても読める。つまり、フウィーヤ型の典型的な詩人としてリルケ、マーヒーヤ型のそれとしてマラルメの名が挙げられている。少し考えればわかるとおり、言葉というのはもともとマーヒーヤ的であり、個物そのものを言葉で指すことはじつは不可能で、それが詩人としてのリルケの途轍もない困難だった筈だ。
 と、わたしがここで言いたいのはそういうことではなくて、たんに自分についてである。わたしがこのようなブログで考察じみたことを書いているのは、個物そのもののリアリティ(フウィーヤ)を底に秘めて言わないところの、マーヒーヤ型物書き(?)としてだな、という、まあそうしたどうでもいい気づきがありましたな。これは、たぶんずっと昔、学生の頃、いや、それより前かも知れないくらい、昔からそうなのだと思う。わたしはどうしてか、個物そのものを語ろうとするリルケ的不可能に、敢て踏み込んではいかないのだ。という、この文章自体もまたそうなのであろう。凡庸というべきか。もっとも、多少マラルメ(にはもちろん遠く及ばないが)的象徴性もあるのだろうが、とは思う。そして、日常生活においては個物そのもののリアリティを、無視しているとは思わない。というか、わたしが「リアル」とか「世界の裂け目」といっているのは、まさにそれなのだ。わたしはそれそのもの(語り得ないもの)は語らないのである。あるいは、禅的に語るか。ま、いずれにせよ、まだまだ未熟である。

とか、どーでもいーが。
ま、ただごろごろしているだけのクソだな。

言葉の物質性。文章がうまいというのは、言葉の物質性に敏感だということだな。あるいは、言葉へのフェティシズム

固有名には個別性がない。一般性しかない、逆説的にいうと。そこはひどく誤解されている。

大事なのはもちろん日常生活だ。いわゆる健常者は、日常生活は強固な安定性をもっていると思っている。しかし、敢ていうなら、それはたんに誤解であり、また生の正しいあり方であるかも疑問だ。リアリティは一回的にして反復不可能なものであり、決して安定的なものではない。すべては一期一会なのである。

昼寝。

晴れる。肉屋。車外は33℃で、暑い。

NML で音楽を聴く。■バッハのトッカータ ニ短調 BWV913 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。

■バッハのイギリス組曲第三番 BWV808 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。■ガルッピのピアノ・ソナタ イ短調ハ短調で、クラヴィコードはルカ・グリエルミ(NMLCD)。グリエルミをちゃんと発見したわたしはエラい笑。■武満徹の「地平線のドーリア」で、指揮は岩城宏之オーケストラ・アンサンブル金沢NML)。 
夜。
一柳慧の「インタースペース」で、指揮は岩城宏之オーケストラ・アンサンブル金沢NML)。■マーラー交響曲第二番「復活」で、指揮はクラウディオ・アバドルツェルン祝祭管弦楽団NML)。
マーラー:交響曲第2番

マーラー:交響曲第2番

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