フィクションと感情移入について、少し

晴。いい天気。

スーパー。肉屋。

現在ヒマ人のやるべきは、軽躁と鬱を往復する現在社会の根底に達するということかも知れないな。労多くして報われない仕事でありそうである。

ごろごろ以外何もせず。
球体の統合。

夕方、ジョン・ケージプリペアド・ピアノのための曲集を寝ころがりながらBGMとして聴いていたのだが(かつての前衛の資本主義的消費の一例かも知れない)、なかなかおもしろくてほとんど最後まで聴いてしまった。全部で一時間半くらいかな。途中、防災無線からドヴォルザークの「家路」(正しくは何というのか知らない、交響曲第九番第二楽章の旋律)が流れてきて、なかなか妙な音響空間だった。夕方五時になると、市の防災無線で毎日流すのである。

夜。
魔法少女まどか☆マギカ」最終話まで見る。以下激しくネタバレあり、ネタバレすると見る意味が激減するアニメなので注意。

なるほど、こういう終わりでしたか。ひどく暗い、ドス黒いアニメで、最後以外は主人公のまどかがメソメソ泣いてばかりいるお人形さんなのでどうも見る意欲が湧いてこなかったが、じつはほむらが準主役というか、ほとんど主役だったことがわかって興味が惹かれるようになった。いや、わたしはじつは最後もまどかにはあまり感情移入できなくて(「神」になるとか、何だよ)、ラストもほむらが主人公であることを示唆しているように感じる。しかし、このラストも全然ハッピーエンドではないね。人間はドス黒い感情(それが「魔法少女」たちを必然的に「魔女」に変える)に塗れた救いがたい存在だというのがこのアニメの通奏低音であり、ラストも、「魔法少女の願い」がネガティブに転化しなくなっただけで何の救いにもなっていない。つまり、(ピュアな)「魔法少女」たちが人間の邪悪さと永遠に戦い続ける定めなのは変わっていない。つまり人間とはそういうものだという暗い認識が、このアニメに高い評価が与えられている要因なのかも知れない。確かに作品として見ると最後の何話かは感動的であるし、そこだけ評価しておけばよいとも考えられる。

このアニメはいわゆる「セカイ系」の作品としての特徴をもつと思うが、わたしは基本的に、自分の近くにいる一見平凡な人間が世界(あるいは宇宙)の運命と直結しているという「セカイ系」が苦手だ。いまでは「お約束」としてもはや平凡にすらなった形態だが、想像力としてあまりにも幼稚だと思う。わたしにも「セカイ系」的想像力が確実にあるから、余計にそう思うのかも知れない。でも、「幼稚」とかいったらアニメなど見られないのも確か。

しかし、エンタメにハッピーエンドを求めるわたしこそが幼稚だといわれれば、確かにそうというしかないかな。古くさくも、「感情移入」とかいっちゃってるし。わたしは感情移入で小説もマンガも読むし、アニメも見ます。正直言って、社会のこれこれを暗に表現してます的、社会形態の象徴としての構造とか、さほど興味がない。

でもこの作品、著名人たちによる評価だけでなく、一般にすごく人気があるのだよねえ。それを考えると、わたしには何かわかっていないところがあるのだな。というか、わたしはそもそも時代遅れなのでした。