マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』

雨。

テレビではずっと台風情報を流していて、岐阜県も要警戒ということであるが、お昼あたりでは雨少々、風はほとんどなし。東海地方では三重県がひどいようだ。あとは静岡県に最大級の警戒とか。関東など、被害が大したことないとよいが。

マルクス・ガブリエルの『「私」は脳ではない』を読む。わたしはこういう論にあまり興味がないのだが、読んでいて、パトナムの例の「水槽の中の脳」はあたらめておもしろく思った。このアイデアの映画化が有名な「マトリックス」であるが、わたしは見ていない。いずれにせよ、我々は水槽の中に浮かべられた脳を中心とする神経系にすぎず、外部コンピュータの電気的入力によって、擬似的に生きていると「錯覚」しているにすぎないという発想である。著者はこれに反論するため、こんな風に言っている。「タンクの中の哀れな脳は、自分自身の作り上げた空想の産物以外、何も知りません。つまり、その脳は言語というものを(中略)もっていない、ということです。脳が知っている単語は、幻覚によるエピソードや対象と関係づけられているにすぎません。水も、国も、友達も、床暖房も、指も知りません。」(p.197)しかしこれは、かなり弱い反論であろう。実現可能かどうかは別として、外部コンピュータは水や国や友達や床暖房や指に関する(言語やクオリアまで含めた)あらゆる構造とニュアンスを我々の脳にジャック・インしているかも知れないから。だいたい著者はここの部分について、「哀れな脳」とか、「ゾッとします」とか、あまり論理的でない印象づけが多いように思われる。しかし著者がはっきりと理解していないことがあって、それは、我々の脳は「入力系」だけでなく、「出力系」があるということだ。我々の脳はとりあえずここでは「入力系」と「出力系」をつなぐ一個の関数であるとして、そのアウトプットは「現実に世界を変える」のである。もし外部コンピュータが「出力系」にまで対応し、実際に出力された電気信号の結果から対応する「外界」を計算し直してタンクの中の脳にフィードバックできれば、それはまさに「世界」そのものといえないのであろうか? 強調しておくけれど、わたしはこんなことは別にどうでもよいのだ、けれども、そのような我々のあり方はある程度真実であると確信している。しかし、そこまでして「タンクの中の脳」と「外部コンピュータ」を作ってどうするのかという疑問があるが。それこそは、ある意味で「神による世界の創造」ではあるまいか?

それから、これはマルクス・ガブリエルに対する些細な揚げ足取りだが、彼がフロイトに対して優越感をもってちょっと揶揄してみせている「脳の小人(ホムンクルス)」(p.263-264)であるけれども、これは完全に彼の誤解である。フロイトが言っている「脳の小人」は、いわゆる「ペンフィールドホムンクルス」で、マルクス・ガブリエルがそこまでで散々揶揄している彼の「ホムンクルス」のことではない。それにしても、自信満々で脳科学を批判しているマルクス・ガブリエルが、脳科学の簡単な教科書にも出てくる「ペンフィールドホムンクルス」を知らないとはちょっと思えないので、何かがあったのだろうな。それともこれは、わたしの読解力不足であろうか?
 もうひとつ揚げ足取りをしておくと、本書のどこでだったか忘れたが、著者が物理学の還元主義の不完全さを(またしても)揶揄するのに、いまだ模索中の段階である「超弦理論」の未完成をもって行っているけれども、これは物理学に対してフェアであるとはいえない。「超弦理論」は自然界の四つの「力」を統一するために発展中の理論であるが、現在においてある意味では「最終理論」は存在しているのであり、それは「標準理論」というつつましい名前をもっている。いま、世の中のあらゆる現象において、「標準理論」に矛盾するそれはただのひとつも見つかっていない。それはもちろん「標準理論」が直ちに世の中のあらゆる現象を説明するということではないが、物理学の還元主義的アプローチは既に終了していると思ってよいのである。ただ、物理学者の「美意識」からして「標準理論」には「美しさ」が足りないと思う人もいて、「超弦理論」などの「統一理論」が求められているにすぎないとも言える。

さらにマルクス・ガブリエルを読んでいて、恐るべき誤りに逢着したので呆れてしまった。真空中では大砲の球と鳥の羽が共に鉛直落下するという事実を受けて、彼はこう書く。「しかしながら、この自然法則は、実際に私が窓から羽を放り投げたら何が起きるのかについては何も教えてくれません。(中略)それに、実際は羽と大砲の球は、まったく同じ速さでは落ちません。(中略)このことからすぐに分かるのは、自然法則が例外なく適用できるのは特定の理想的な条件を実現したときだけだ、ということです。(中略)ですから、自然法則についての知識だけを基にして、次の瞬間に何が起きるのかを予測することはできません。」(p.287-288)これはあまりにもひどい物理学理解である。空気中での羽の運動の予測が「困難」なのは、鳥の羽の形状を条件として与え、大気の抵抗力の効果を計算するのが非常に複雑であるということゆえのみで、自然法則は適用可能であり、羽の落下運動が原理的に予測不可能であるというわけではまったくない。少なくともこの例のニュートン力学的なレヴェルでははっきりそう言えるので、原理的に予測は完全に可能なのである。ちょっとこの誤りは「揚げ足取り」のレヴェルを超えていて、ひどすぎるので、自分は本書を丁寧に読む気力をここでほとんど失ってしまった。こんなことを書くならせめて高校物理程度のことは学んで、えらそうなことを語って欲しいものである。

マルクス・ガブリエル『「私」は脳ではない』読了。上で散々著者を批判したが、わたしもまた「『私』は脳ではない」と思っている、その点で著者に賛成である。それから、意外であったが、本書の主張では「決定論と自由は共存可能」(p.300-325)であり、わたしもこれには完全に賛成である。これは、ピーター・ヴァン・インワーゲンという人の「共存論」と「非共存論」の整理によるものだそうで、なるほど、これはおもしろい。わたしの考えはまだ煮詰まっていなくて、著者の議論にはだいぶ疑問があるが、それでも決定論と自由の共存(というか両立)が出てくるというのはなかなかによい。著者はこれからライプニッツの「充足理由律」に及んでいるが、ライプニッツはこんなことを言っていたのか。これはわたしは無知でした。本書は徹底的な「自由擁護の書」であるが、それは決定論と両立するという類の自由なのである。なお、わたしの「共存論」は、(オレオレ)仏教的なものであると楽屋を公開しておこう。なんだ、そんなものかと思われても一向かまわない。
 それから、本書に共感するところ、もうひとつ。本書では人類はいつか必ず滅亡すると断言されているが、わたしもまたそのとおりだと思う。物理学による宇宙論を正しいとするなら、人類や地球上の他のあらゆる生命体、あるいは地球外に存在するかも知れないすべての生命体も、すべていつか滅びることはまったく疑いない。まあ、こんなことはどうでもいいことであるが。

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ 710)

「私」は脳ではない 21世紀のための精神の哲学 (講談社選書メチエ 710)