Thinkpad Edge 11 2545RW4 落手 / F・ヴェデキント『春のめざめ』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはヒラリー・ハーンNMLCD)。■ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第七番 op.108 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。さほど長くはないが印象的な曲である。次の第八番と対になっていると考えてよいのかな。■ドビュッシーの「英雄の子守歌」、「アルバムのページ(負傷者の服のための小品)」、「エレジー」、「燃える炭火に照らされた夕べ」で、ピアノはタンギ・ド・ヴィリアンクール(NMLCD)。ドビュッシーのあまり耳にしないピアノ曲たち。

何だか今日はいろいろあった。まず Linux Mint を 19 にアップグレードしたら、プリンタが使えなくなった(参照)。いろいろやってみたのだがダメで、ドライバが古くなったのかと思ったのだが、某サイトによると system-config-printer のバグらしい。それもよくわからないのだが。

いづれにせよこれではいけないので、といっても自分はプリンタはほとんど使わないからいいのだが、母の PC ではそうはいかない。なので、母の PC の Mint 19 を Timeshift で 18.2 に戻す。これでプリンタが使えるようになったのを確認した。それにしても既に何回も Timeshift のお世話になっているなあ。メモリをバカ喰いするのだけ難点だが、Linux をメインマシンとして使っている者には非常に便利である。


それから、風呂に入っているときにオモチャが到着。じつはミニノートPC が欲しくなって、このところヤフオクをウォッチしていたのだが、昨日落札したのです。えらく早く届いたな。機種は LenovoThinkpad Edge 11 2545RW4 で、11.6インチ(1366×768)のミニノート。2011年の発売だから、まだ Windows XP の時代かな?(追記:ちがった。Windows 7 だった。) 大まかなスペック。CPU は AMD Athlon (tm) ll Neo K345 Dual 1.40GHz で、これは一応 2コアである。メモリは 4GB に増設、内蔵HDD は 320GB、OS は Windows 10 + Office、ACアダプタ電源ケーブル付きという、自分のおおよその期待をみたしていたので買いました。落札価格は 11,600 円即決で落としたのですが、高いと見るか安いと見るか。ヤフオクを眺めていたところでは、ミニノートとしてはかなりいい条件だと思います。

自分はじつは Windows 10 は消してしまって Linux を入れるつもりだったのですが、回りが「Windows は残しておいたら」というので、Linux とのデュアルブートにしてみることにしました(システムが UEFI じゃなくてよく知った MBR だったので、ちょっと助かった。UEFI は新しいのだが、結構扱いが面倒)。下は Windows 10。
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Windows 10 は Cドライブが 100GB で、Dドライブにはシステムのバックアップがあるだけで 200GB あったので、ここに Ubuntu Budgie 18.04 LTS を入れるつもり。いま、GParted で Dドライブを分割し、swap 領域(8GB)と Budgie を入れるパーティションを作成しているところ。何か領域のコピーをしていて一時間以上かかるみたいなので、いまこれを書いているという次第。(PM10:22)

インストール終了。Windows 10 と Ubuntu Budgie 18.04 が共に立ち上がることを確認した。ひととおり設定やカスタマイズもおこなった。Budgie の画面はこんな感じ。
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深夜になってしまったので Ruby のインストールなどは明日だな。(AM02:00)


F・ヴェデキント『春のめざめ』読了。酒寄進一訳。新訳である。どうも岩波文庫旧訳は読んでいないようだ。読み始めると、現代日本語の若者言葉やくだけた表現をふんだんに取り入れた凝った翻訳であることがわかる。「〜じゃん」「ヤバイ」「イケメン」「マジ」「ヘタレ」等々。かつては本書を一種のポルノグラフィとして読んだ年長世代もあったらしいが、いまではまあ何ということはない。しかし本戯曲はその内容ゆえ、書かれてから初演まで十五年もかかったらしい。本書はもちろんポルノグラフィではなくて、一種の風俗批評というか、偽善打破的な効果を狙ったものであろう。ここでは大人たちは性を隠蔽して子どもたちに事実を伝えない態度に終始し、子供たちとの和解がなされる場面は一切ない。それゆえに、子供たちは却って道をあやまっていくことになる。だから、本書は「性の解放」なるムーブメントの先駆けであったのだろうか?
 しかし、PTAママ的な偽善は、現在でも猛威を奮っているのではなかろうか。我々の世代なのか知らないが、例えばキズナアイちゃんのかわいさそのものに勝手にセクシュアルなものを過剰に読み込んで糾弾した愚か者たちのような人種は、ますます増えているように思われる。しかし、わざわざそんなことをしなくたって、いまの若い人たち(特に男性)は性的に充分淡白である。性はもちろん幻想と深く関わりがあるが、子供のときから性的な幻想の氾濫の中にいるのだ、もはや幻想のドライブは弱いのである。キズナアイちゃんを叩いたって、逆効果というものです。それにまったく、コンビニからエロ本を撤去してどうするというのだ。バカものたちよ。

春のめざめ (岩波文庫)

春のめざめ (岩波文庫)

いまや男性は性的な幻想をすぐに消費してしまい、内圧を下げるのはいとも簡単なことだが、自分にはでは女性はどうなのかわからない。AV に出る女性たち、コスプレをする女性たち、はたまた乱立する女性アイドルたちは、そのような幻想の「生産者」として、どういう気持ちでいるのだろうか。自分は、不思議な時代に生きていると思わざるを得ない。(AM02:40)