吉田秀和『永遠の故郷 夕映』/名鉄阿房列車

曇。
めちゃめちゃ早く寝てしまったので、4時半に起きて読書。

バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻〜第一番 BWV870 で、ピアノは Ilya Maximov。どこかのコンクールの映像らしい。この曲は何てことのない曲なのだが、時々聴きたくなる。5分くらいの短い曲なので、是非どうぞ。

モーツァルト交響曲第三十三番 K.319 で、指揮はカルロス・クライバー。誰もがいうことだが、クライバーという人はどこかちがう。この曲はどちらかというとモーツァルトの中ではマイナーな交響曲であるが、まあ何ともこれは音楽であるというしかないのではないか。あらゆる形容がむなしくなるような演奏である。聴いてのとおり、特に変ったことは何もしていないのにね。

モーツァルト交響曲第三十六番 K.425 で、指揮はカルロス・クライバー。正直にいうと、この演奏は自分のレヴェルを超えていて、聴いていてとてもしんどかった。これもまたクライバー体験であろう。

ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はカルロス・クライバー。歴史的名演。ウィーン・フィルがまるでアマチュア・オーケストラのように熱くなって演奏している。この日ムジークフェラインザールにいた人は、とてつもないものを聴いたという思いだったことだろう。それにしてもクライバーの指揮のカッコいいこと。終楽章でオケはムキになって弾いているのに、にこやかな涼しい顔で踊るようにタクトを振っている。こういうのが動画として残されているというのは、さすがに複製芸術の時代というべきであろう。

図書館から借りてきた、吉田秀和『永遠の故郷 夕映』読了。全四巻完結。音楽批評であるが、日本文学史に残る傑作であることはまぎれもない。しかし、本当にこれらがこれから読み継がれていくものなのだろうか。我々は日本人をそこまで信じてよいものなのか。まあしかし、そんなことは本書の価値には関係のないことである。極少数の人だけが理解すればよい本なのかも知れない。自分はその中に入らないかも知れないが。

永遠の故郷――夕映 (永遠の故郷)

永遠の故郷――夕映 (永遠の故郷)


暖かくなってきたので、昼から「阿房列車」してきました。のんびり名鉄に乗って、いつかは名鉄全線に完乗できるといいなというプロジェクト(?)であります。阿房列車なので、列車に乗る以外は特に何もしません。ということで13:44名鉄新那加駅から乗り、名鉄岐阜名古屋本線に乗り換えて名鉄一宮へ。名鉄特急は新幹線の真似なのか、駅出発時と到着時に電子音のチャイムが鳴りますが、自分はこういうのは好かないです。日本人は人工音があまり気にならない国民性ですが、ヨーロッパならすぐに苦情が入るでしょう。大げさにいうと、音の暴力という風に感じます。まあしかし、皆んなが気にしないなら長いものには巻かれましょう。
 一宮から玉ノ井へ行くつもりだったのですが、接続があまりにも悪く、尾西線の津島行が先に来たのでこれに乗りました。津島まで、半分住宅地半分畑という車窓風景で、苅安賀(かりやすか)で乗客の殆どが降りてしまいました。あとはうららかな春の車窓風景を見るともなく列車は進み、津島着。阿房列車なのでここでは下車せず、少し待って豊明(名古屋本線)行に乗車します。今度は乗客がどんどん乗ってくる。須ケ口で後続の列車に乗り換え、名鉄名古屋着。ここで下車してひさしぶりの名駅ジュンク堂書店まで歩く。PC本や理系の専門書を期待したのですが、確かに知らない本はたくさんあったものの、めぼしい物はだいたい持っているという感じで、いまやインターネットのおかげで田舎者でもさほどの不自由はないなと思わされました。哲学書の棚など、確かに新しい本はここにもたくさんあるけれど、本質的には二〇年前とあまり変わりがない。目に付いたのは吉本さんの本で、亡くなっても関連書も含めたくさんの本が並んでいたので、これはジュンク堂だけなのかも知れないが、稀なことだと思われました。結局買ったのはまつもとゆきひろさんの本と古典新訳文庫の計二冊というていたらくで、別にここで買う必然性はまったくなし。まあ、日本文化、世界文化が沈滞しているのではなく、ただ自分の好奇心が衰えたのだろうし、そうあってほしいものだと切実に思いました。ただ、知のアカデミズム化は確実に進行していて、専門書を買うのはもはや大学人が殆どだいうのはまちがいのないことですが。
 帰りは名古屋本線を使わず、犬山線回りで各務原へ。犬山遊園で各駅停車に乗り換え、新那加にぐるりと一周して戻ってきました。途中、僕としては一枚の写真も撮らずに済ませました。阿房列車だからね。

ジュンク堂の棚を見ていて思ったのだが、このところの新しい本を見ていると、これはどの分野でもそうなのだけれど、同じような本があまりにも多いということ。特に初学者向けの本。同じような本が10冊くらいあると、もうげんなりしてそのうちの一冊も手に取らないということが多い。で、初学者を脱したような人が読むべき本がきわめて少なく、そういうものがあるとすればたいていロングセラーになっている。今日見た、PC本、数学書、物理書、哲学関連、すべてそうである。何か奥の構造が透けて見えるけれど、もうこれ以上は言わない。
かつてはジュンク堂から本をいっぱい入れた紙袋を両手にぶらさげて帰ってきたものだが、じつに買えなくなったものだ。齢をとったからだろう。そうにちがいない。