山口昌男国文学対談集『古典の詩学』

晴。
教育困難校に勤務してるけど、もう無理*1
まさにこのとおりなのだよなあ。本文に「日本、まずくない?」って増田がぽろっと漏らしているけれど、マジで日本マズいと思う。でも、いまのままだとどうしようもない。マジメな教師がつぶれていく構造になっている。どうしていまの子供たちがこんな風になっているのか? 答えは簡単、大人たちがクズだからだ。皆んな胸に手を当てて考えてごらん、自分はどうしようもないクズだよね? それが変わらないから、子供たちも社会も変わらない。それどころか、さらに悪化している気がする。自分も人のことはいえないから、多少でもマシになれるように心がけたいと思っている。それしかない。
自分がこれまで生きてきて知っている同年輩の人間は、頭はよくても、悪い意味で「親になったらどういう子育てをするのだろう」と思わせられる奴らばかりだった。たぶん自分もそうなのだろうから、子供がいないだけ幸いなのかも知れない。案の定、彼ら彼女らが親になって、予想どおりということになっている。
何だか突飛な連想だけれど、吉本さんがなつかしい。あの人のすごいのは、あんなに頭がいいのにふつうの人で、きっちり子育てをしたということだ。あの子供さんたちを見るだけで、吉本さんがふつうに立派な(?)父親だったことがわかる。いや、本当は自分などにはわからないのだろうが、そんな気がする。

バッハのフランス組曲第一番 BWV812 で、アンドレイ・ガヴリーロフのピアノ。あまり趣味のいいバッハではないのだが、何故か定期的に聴きたくなってくる(自分のいまのスタンダードはペライアの録音である)。CD ももっているのですが、You Tube で聴いてみました。ガヴリーロフはピアノを弾かなくなっちゃったのかな。
音楽を聴く。■スカルラッティソナタ K.130、K.131、K.132、K.133、K.134(スコット・ロス参照)。K.132 はふつうこんな遅いテンポでは弾かれないと思うが、これまたこの遅さがすばらしい効果を挙げている。最後の部分など(本当は楽譜を上げて特定したいくらい)、感動的ではあるまいか。スコット・ロスのようなチェンバロ奏者は滅多に出ない。早世が惜しまれる。

春の先触れ、オオイヌフグリ

昼から米屋。肉屋は休みだったのでイオンへ行ったのだが、豚ロースの安いのはいまひとつの感じだし、イオンに入っている柿安はバカみたいに高いしで困る。我々のような古くさい人間には、イオンの食品売り場って全然魅力がない。基本的に安かろう悪かろうだと思う。どうしてこんなに人が来ているかと思うのだが、ブランド力のせいだろうなあ。まあ好きにすればいいのだけれど、そのせいでまともな店が潰れるので、とばっちりを受けるのは我々のような貧乏人である。
いや、柿安の高い豚ロース、おいしゅうございました。まあこれでマズかったら悲惨である。くさしてごめんね。

図書館から借りてきた、山口昌男国文学対談集『古典の詩学』読了。冒頭の(あの小難しい)渡邊守章さんとの対談など、よくわからなくて戸惑ったが、まあわからないのはそうなのだけれど、守屋毅さんとのそれあたりからこちらも調子が出てきて、非常におもしろく読んだ。僕は山口昌男は結構読んでいて、いま本棚を覗いたら文庫新書でも 30冊くらいあって、知的ミーハー(死語)だったことがよくわかるけれども、久しぶりに山口昌男を読んでみて、これまで全然わかっていなかったのだなと我ながら呆れた。山口昌男は亡くなる前などは言っていることがいつも同じで、独創性が失われ気味だったように思う。それなどはこちらの勘違いなのかも知れないけれどそんな印象だったわけだが、本書を読んでみて、こういう真に知的な人はいまは本当に払底したなと痛感した。なんとも自分とはレヴェルがちがいすぎて、本書もたぶんあまりわかっていないのだと思う。山口さんが活躍していた頃は「知の冒険」などという言い方があって、山口さんが流行らせたのだと思うが、この人はまさしく「知の冒険家」だった。いまや「知の冒険」などと言っても失笑されるだけであろう。それにしても、山口昌男の名を聞かなくなったものである。ネットでも殆ど見かけたことがない。こんなことでいいのだろうかって、もうそういう話はやめましょう。それにしても何という博覧強記、「集合知」などと言っている間に、我々はバカになりましたね。山口昌男は確かに大学の先生ではあったが、アカデミズムでは考えることができないことをよくわかっておられたと思う。常に「知的越境」(死語)していた人だった。アカデミズムで可能なのはパズルを解くことだけで、考えることではないのですね。まあいまや、パズルを解くことが考えることだと思っている人が殆どだろう。考えるというのは、すべてを破壊し尽くしたところから始まるものです。それは大学ではできない。

とにかく我々がはっきりと認識しないといけないのは、人生に意味などない、人間はきわめて愚かである、しかし人生にはいいこともあるという事実である。これをしっかり理解しておいて、あとは楽観的にやることだ。これは他人にいうのではなく、まずは自分のためにいう。なかなかこれは行うにむずかしいのである。

エラそうに何についても意見はいうけれど、結局は他人事。悪いのは他人、でなければシステム。自分がそうだとはまったく思わない。
何についてでも意見=偏見をもっている。聞かれれば得々として答える。聞かれていなくても SNS で拡散させる。勉強とかはしないけれど、自分は何についてでも判断できると思っている。まちがっても自分がカスだとは思わない。自分の意見だというそれが、じつは他人の言葉なのだとは知らない。あたかも自分で考えだしたかのように思っている。
サウイフオトナニ、ジブンモナリタイ。

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20170207224412
はてブコメント見てびびった。まともなコメントがほとんどない。なに皆んなその上から目線は。はてブコメントを見ていると荒涼としていて、まさに世界の終わりという感じがする。知ったかぶり増殖炉。