内藤湖南『支那論』

雨。
音楽を聴く。■ファジル・サイメソポタミア交響曲第二番op.38(Aykal)。鬼才ピアニスト、ファジル・サイ交響曲だ。五〇分近い大曲。強く土俗的な感じで、パワーがある。ただ、名前は「交響曲」だが、交響曲の様式感はないようだ。どちらかと言うと、交響詩に近い感じである。野蛮さが、どこかしらストラヴィンスキーの「春の祭典」を意識しているのかなとは思った。それはともかく、まったく聴き慣れない響きで、とてもおもしろかった。併録されている、第三番も聴こう。

Mesopotamia Symphony No.2: Universe Symphony No.3

Mesopotamia Symphony No.2: Universe Symphony No.3

このところ音楽を聴いてばかりで、ちょっと読書ができていないな。しばらくこういう風だろう。ガンガン音楽を聴いていこうと思っているので。

内藤湖南支那論』読了。稀代の中国学者だった湖南だが、その論考はさすがに今では古くなっているのだろうか、というか、今が一世紀以上前の湖南を超えていなかったら困るのだが、それは自分に判断できるようなことではない。まあ、中国の歴史に関する湖南の圧倒的な博学には、当り前だと思っているからさほど驚かないが、この文章が書かれた当時の中国の現状について、これほど圧倒的な認識を持っているとは思っていなかった。歴史の展開は、ほぼ湖南が指摘したとおりになっているのではないか。いくら元ジャーナリストだと云っても、度を過ぎているのである。文庫解説を読むと、イデオロギー的に湖南を断罪することができるようだが、そんなことをしても、凡庸な学者以外のためになるのだろうか。自分の思うところでは、湖南で驚かされるのは、ミクロな知識が一見無謀とも思える大局的なパースペクティブに完全に奉仕していることだ。こうやって大きくざっくりと歴史を観ることは、大家でないとなかなかできないことで、そこいらが湖南は大胆だ。そういうところは、専門家は眉を顰めるだろうが、素人には大局観としてためになる。こういう仕事も、学者には必要ではあるまいか。
 概説的なことばかり語って内容を語らなかったが、自分が線を引いたところを抜書きしても仕方がないだろう。文庫で湖南が読めるのだから、洵に有り難いことである。しかし、岩波文庫なんかにもっと湖南を入れてもいいのにね。
そうか、今日は「雨のウェンズデイ」か…