橋本治『生きる歓び』/日高敏隆『帰ってきたファーブル』

日曜日。晴。
ラーメン「麺丸」にて昼食。まぜそば(追い飯付き)700円がめちゃめちゃ旨かった! この店は研究熱心だなあ。こってり油の太麺なので、こういうのが好きな人にしか薦められないが。にんにくも入れてもらう。具をぐるぐる混ぜて食す。それから、麺が300gと量が多いので、それは注意。もともと豚骨ラーメンの店なので、こってり系に強いのだ。ここはもうすっかり有名店で、今日も店を出るとき十人くらいは待っていた。東京じゃなくて、各務原での十人ですよ。小さい店なのになあ。
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橋本治『生きる歓び』読了。日録に書く。

生きる歓び (角川文庫)

生きる歓び (角川文庫)

日高敏隆『帰ってきたファーブル』読了。博物学ナチュラル・ヒストリー)の復権を主張した本と、一応は云うことができよう。物理学的な「本質主義」(「還元主義」とも云えるだろう)だけが、科学ではないということである。生物の生態というものは、どの生物でも理にかなっているのであり、必ずしも「進化的」に進んでいるとか、遅れているとかいうことでその価値を云々することはできない。そういうことから云っても、本書はじつは、細部が面白いのだ。一口に「蝶」と云っても、その生き様はいろいろなわけである。至極面白い。で、ここで、そんなことを研究して何になるか、お金をかける以上、有用なことをすべきではないか、という奴が必ず出てくるが、著者はそんなことは言っていないけれど、人間は有用性のために生きているわけではないと言いたい。我々は、無用なことをやっている学者たちに、ある程度の寛容の精神でもって対しなければならないと思うのだ。
先日の朝日新聞に載った、丸谷才一による吉田秀和追悼文には呆れた。丸谷は自分にはどうでもいい作家であるが、一応書いておく。まず、吉田秀和に対する追悼文としては特に見るべきところはなく、まとまってはいるが、丸谷としても凡庸な出来といっていいと思う。故人に対する哀悼の念もあまり感じられない。が、まあそこまでは仕方ないだろう。しかし、丸谷は昔から小林秀雄批判をやっているけれども、この場ですら小林秀雄批判を混入させているのはどういうものだろうか。それがまた、公正とは言いかねるものである。確かに、小林秀雄の『モオツアルト』は古びたし、音楽批評として、小林の『モオツアルト』が、専門的な知識をもった吉田秀和の評論に遠く及ばないことは、云うまでもないことである。そんなことは当り前のことである。問題は、どうして音楽についてまったくの素人だった一文芸評論家によって、これが書かれねばならなかったか、ということを、丸谷はまったく考慮していないことである。『モオツアルト』は、未熟な日本語の悪条件の中、何もないところから力技で生み出されねばならなかったものであり、言葉の力でこういうことが出来るのだ、ということを、コロンブスの卵のように示したものでもある。だから、『モオツアルト』が書かれねば、吉田秀和の存在はあり得なかったのだ(それは吉田秀和自身が述べていることである)。ここが鍵である。これを無視した丸谷の批判は、到底公平なものではない。こればかりでもなく、『女ざかり』なる下らない小説を書いたり、じつに丸谷は、長い晩節を汚したと思わざるを得ない。