ドゥルーズの『シネマ2』を読む/中野美代子『中国春画論序説』

晴。
プールとアピタ。近頃、睡眠時間が長い。ちょっと過渡期で、本もあまり読めないし、ブログに書いているものも自己満足になっているような気がする。こういう時はどうしてもある。自分の調子を正確に把握するのはむずかしい。なるだけルサンチマンに捕われないようにしたいものだが、凡夫なので、つい。

ドゥルーズの『シネマ2』を読む。ようやく、ドゥルーズがどこで突き抜けたのかが少しわかるようになってきたようだ。本書は、過去と現在という点で、突き抜けた部分が出ているのだと思う。ベルクソンは最初、持続は主観的であり、われわれの内面生活を構成している、というように云わねばならなかったと、ドゥルーズは言う。「しかし、しだいに彼はまったく別のことをいうようになる。唯一の主観性とは時間であり、根底でとらえられた、時系列的でない時間であり、われわれは時間の内部にいるのであって、その逆ではない、と。われわれが時間の中にあるということは、ありふれた考えのようだが、最も高度なパラドックスなのだ。」(p.113)つまり、過去は現在であり、また現在は過去であるということである。これは決して言葉遊びなどではない。ベルクソンのいうイマージュ(本書ではイメージ)こそ、まさしくすべてを蝶番のように繋いでいるのである。
 それから、ドゥルーズの物理的・数学的な比喩は、あまり真面目に取らないほうがいいと思う。使われているのはそれほど高度な物理的・数学的内容ではないし(理系の学部学生程度)、適切かどうかは微妙なところだ*1。いずれにせよ本質的ではないし、遊びなのだと思う。

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

シネマ2*時間イメージ (叢書・ウニベルシタス)

中野美代子『中国春画論序説』読了。中野さんの本だから一筋縄ではいかないと思ったが、やはり驚かされてしまう。何とも、見たことも聞いたこともないような話ばかりだ。こういう楽しい本に堅い言い方は無粋だけれど、中国人の想像力というのは、どうなっているのかと思う。あれほど高い文明を築き上げた中国なのに、この春画の稚拙さはどうだろう。幼稚としか云いようがないではないか。それとも、日本が変っているのか… いずれにせよ、中国の「観念的」、日本の「具体的」は、こんなところにも表れていそうだ。
中国春画論序説 (講談社学術文庫)

中国春画論序説 (講談社学術文庫)

*1:本書でもパイこね変換やリーマン幾何学の比喩が出てくるが、記述が曖昧で、ドゥルーズが正確に理解しているのかどうかもわからない。