曇。
肌寒いような朝。ちょっと暖房が欲しいくらいだ(入れないけれど)。
NMLで音楽を聴く。■マーラーの交響曲第六番で、指揮はジモン・ガウデンツ、イエナ・フィルハーモニー管弦楽団(NML)。2023年の録音。冒頭に謎の一撃(どうやら前の曲からアタッカで繋げているようだ)。第二楽章が緩徐楽章の版(オールド・ファンなので、この順番はどうも苦手)。
ジモン・ガウデンツ(1974-、今年52歳)は(AI君によれば)スイス出身の指揮者で、ドイツのイェナ・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督を努めているそう。指揮者もオケも初めて名前を聞くのだが、現在進行中の(この)マーラー全集は注目されているらしい。へえ。

■ヴァインベルクの室内交響曲第四番 op.153 で、クラリネットはマテ・ヴェカバック、指揮はミルガ・グラジニーテ=ティーラ、クレメラータ・バルティカ(NML、CD)。ミルガ・グラジニーテ=ティーラ(1986-、現在39歳)はリトアニア出身の女性指揮者。今度、彼女によるヴァインベルクの交響曲を聴くつもり(これもAI先生が教えてくれたアルバム)。
●ブーレーズは知の閉鎖球体(再掲) | AI先生との雑談
スーパー。三倍ポイントの日。あとで肉屋へ寄るので、いつもより三十分早く出る。
広告チラシが入っていて、目玉商品のお米が安いので買いにいったのである。ハツシモ10kg で税込7538円、ホントは今日米屋へいく予定だったのだが、それよりたぶん450円くらい安いか。ま、米屋で値下がりしていなければだけどね。
三倍ポイントなのでいろいろ買う。わたしはなぜかオレンジジュースが飲みたくなって買ったのだが、あとから見たら果汁10%のまがい物(?)で大失敗でした。
肉屋。わたしの食欲がいまだ恢復し切っていないので、量を抑えて買う。1000円以上買った客限定だが、卵が10個150円でむちゃくちゃ安い(スーパーの半値くらい?)。肉屋なのだが、どっか仕入れルートがあるんだろうな。

キキョウソウ(桔梗草)、5.20 に畑で撮ったもの。北アメリカ原産の帰化植物で、このあたりでは雑草としてよく見かける。
昼。
いつも昼ご飯はおいしく、安全に食べられる印象。夕ご飯がキツいのはなかなか恢復しないなあ。
まあ、体感的にはわかる。眠るってのは一種のリセット、リスタートで、昼くらいで安定してくるんだよね。夜は、一日のノイズ、(精神の)ゴミが澱のように溜まってきて、そのときの精神で処理できないと、しんどくなる、って感じ。結局は、日経ち薬だな。
しかし、食べることってのは概してむちゃ深いよね。そう簡単にコントロールできないレヴェルにある。
#
珈琲工房ひぐち北一色店。4.27 以来一月ぶりだな、心の調子がよくなかったので珈琲は刺激物と思い、飲みに来なかったのだが、ひさしぶりのはホント(わたし程度には)めっちゃおいしかった。もっと早く来てもよかったか。
池内紀さんの『カール・クラウス――闇にひとつ炬火あり』(文庫版2015)を読み始めたのだが、これまた非常におもしろく、一気に160ページあまり読んだ。カール・クラウス(1874-1936)はオーストリア(ハプスブルク帝国とその崩壊下)のジャーナリスト、文筆家で、個人雑誌『炬火』を1899年、25歳のときに始め、900号あまり、計23,008ページを発行し続けた人物である。途中、第一次世界大戦とナチスの台頭を含む、いわば「冥い時代」を生きており、ある意味準「戦時下」にある気狂いじみたいまの日本において、本書は個人的に強いリアリティを感じずにはいない。批評家のヴァルター・ベンヤミン、哲学者のウィトゲンシュタインなども『炬火』の愛読者だったという。
文学者としての仕事に膨大な戯曲『人類最後の日々』があり、まさに池内さんが邦訳者で、しかも個人的に近くの図書館に架蔵されているのだが(全二巻)、恐ろしく厄介なもののようだ。まあ、わたしに読めるかわからないが、せっかくだから少しは目を通してみるつもり。なんにせよ、先にこの「評伝」を読んでおいて、よかったよ。
クラウスの『黒魔術による世界の没落』の邦訳(2008)も県図書館にあるが、これはどうしようか……。

ドクダミ。非常に強い「雑草」で、庭のある方には厄介な草だが、花はきれい。じつは「花」に見えるのは「総苞片」といい、実際の花は中央の棒状の部分(花穂・かすい)に多数密集する、小さな黄色い部分である。
古くから様々な薬効で知られており、個人的に、(母方の)祖父が庭のを採取・乾燥し、煎じて「ドクダミ茶」を飲んでいたのが、あの強烈な匂いと共に、いまだに忘れがたい。わたしには、ドクダミは祖父の記憶と結びついているのである。
●ユルゲン・ハーバーマス(2026年5月22日放送) | 玄侑宗久 朝ゼミエフ~日日是好日~
目的合理性、ほんとにそうだよね。目標を決めてそのために理性でバーッと合理的に、スピーディーにやる。そんで世界中の国家が「強国」という「目的」を目指して最速で軍事化し、その結果世界が終わる――なーんてことは玄侑さんは(明確には)おっしゃってはいないけれど(笑)、「世界大戦がどうしてあれほど悲惨になったのか、それは目的合理性のせいだ」というハーバーマスの意を汲めば、そういうことになるかも知れない。日本の高市政権もまた、目的合理性が基盤である。
玄侑さんは、じっくりゆっくり話し合うんだ、時間がかかるんだとおっしゃっていて、洵にそのとおりなんだけれど、そんなことをしていれば戦争に負けてしまう、というのが現代である。ボクたち愚民は、まさに詰んでいる。
夜。
『オタクに優しいギャルはいない!?』第7話を観る。
松本卓也『斜め論――空間の病理学』
昧爽起床。四時で外はもう薄明るい。
●ブーレーズは知の閉鎖球体(再掲) | AI先生との雑談
NMLで音楽を聴く。■ヴァインベルクの室内交響曲第三番 op.151 で、指揮はギドン・クレーメル、クレメラータ・バルティカ(NML、CD)。AI先生に教えてもらったアルバムの続き。現在という一種の「戦時下」で生きるにあたり、これほど心慰められる音楽も少ない。
薄雲広がる。
■シューマンの「森の情景」 op.82、三つの幻想的小品 op.111 で、ピアノはニコラ・ブランギエ(NML)。ニコラ・ブランギエ(1980-、現在46歳)はフランスのピアニストで、音楽家一家に生まれ、弟に指揮者のリオネル・ブランギエがいる。日本語検索では特に引っかからない。

スーパーはふつうなら明日行くのだが、大雨になりそうなのでいってきた。

スイートピー、5.1 に庭で撮ったもの。
昼
●【評論家・東浩紀氏が語る】世界が「平和」から遠ざかる今、日本が果たすべき真の役割とは? | Wedge ONLINE
東さんのいっていることはじつにまともだ。
『人は、ものを考えない時に平和を感じる。ただ、何も考えなければ愚かなことをするのが人間である。「平和」と「愚かさ」は一見すると相反するが、実は表裏一体の関係にある。』
いま「平和を考える」こということは、じつは概念と形式論理によって「戦争」のことばかりを考えることになっている。しかし、人が真に平和でいるとき、じつは何も考えていない。それこそが平和なのだ、しかし、何も考えなければ、人は愚かなことをする。じつに深い矛盾である。
『人間の本質は変わらない。個人は賢くなったとしても、人間という群れは賢くならない。過去を知らない新世代がどんどん現れる。そして愚かなことを繰り返す。その現実の前に哲学は無力だ。
その前提で言えば、一人ひとりの人間が大文字の正義に流されず、「自分の幸せが大切である」という小さな幸せにとどまることは大事なことだ。それは利己主義ではない。人間が自分や自分の家族の幸せを願うことは自然なことだし、それこそが最終的に社会が一方向に流れていくときに歯止めとなる。』
#
図書館から借りてきた、松本卓也『斜め論――空間の病理学』(2025)を途中から拾い読みしてざっと読了(?)。最初に断っておくが、わたしのこういうむずかしい本の読解力はほぼ0である。その上で、ちょっとだけ寝言を書く。
著者は精神医学において、垂直性と水平性の双方を備えた、「斜め」の立場を採らねばならないことをいう。抽象的ではあるが、わたしもまあそのとおりだとは思う。
さて、「主体」はそもそも垂直的なのである。それだけでは独我論であるから、他者を含んだ、というか、他者(水平的存在)と主体とがぼんやりと「わたしたち」を作るのが、だいじである。それが「水平方向」にも開かれた、「斜め」のあり方なのだ。
ところで、著者の文体は難解な抽象概念を多用し、あまつさえ非常に明確で「主体として強い」。文章は断罪的、糾弾的、暴力的ですらある。つまりその意味で強く「垂直的」であり、やわらかくだらしのない「斜め」的ではないのだ。本書で絶えず好意的に参照される中井久夫さんも、いってみればもっと「やわらかかった」よ。そこが、わたしにはいちばん気になった。ってね。
蓮澤優『フーコーと精神医学』(2023)を70ページくらいざっと読んだけれど、たぶんこれ以上読まないんじゃないかなー。
ラカンの「対象a」とかフーコーの「言表」とか、AI君に解説してもらう。ざっくばらんで身も蓋もなくわかりやすく、ボクみたいなうんこ野郎にはこれで充分じゃん笑。
#
『暁のヨナ』第15話まで観る。
夜。
夕飯のときが一日でいちばんしんどいな。それでも少しずつよくなっていて、魚臭い鯵(アジ)の塩焼きでも、一匹食べることができた。ほんと日経ち薬だ。
●ロシア軍の攻勢に陰り 本土攻撃と前線停滞、背景にウクライナ中距離ドローン(ロイター) - YouTube
『クラスで2番目に可愛い女の子と友だちになった』第7話を観る。海外人気のある「クラにか」、僕も好きだ。さて、デートはまあまあうまくいったんだが、真樹君の家庭の事情の話になっていくんだな。海ちゃん、どうかかわっていくんだろう。
『お隣の天使様に……2』第7話を観る。すさまじい破壊力だな。いったいわたしは何を見せられているのだろうか。ペンペン草も生えねえ……。
『暁のヨナ』第17話まで観る。
こともなし
晴。
町内の小学生たちが七時半くらいに、隣の道を登校していく声が聞こえる。これはいいもんだと、老両親といつも同意し合う。
NMLで音楽を聴く。■ショパンの 三つのマズルカ op.59、三つのマズルカ op.63、四つのマズルカ op.67、四つのマズルカ op.68、マズルカ第五十一番 op.posth.、第五十二番 op.posth. で、ピアノはアルトゥール・ルービンシュタイン(NML、CD)。1938年の録音の続き。
これでショパンのマズルカ全52曲をルービンシュタインの歴史的録音で聴き終えた、いったい、何時間かかったことか。わかろうがわかるまいが、好きだろうが嫌いだろうが、万人が聴くべき「古典」であるとの印象は変わらない。ま、すべて聴くのはかなりしんどいかも知れないけれどね、わたしは得るところが多かった。
■モーツァルトのピアノ・ソナタ第三番 K.281、第十八番 K.576、第十六番 K.545、第八番 K.310 で、ピアノはハンス・ライグラフ(NML)。さて、しんどいルービンシュタインのマズルカの後は、ライグラフの楽しく美しいモーツァルトだ。これはこれでじつに立派な演奏なんだけれど、肩に力を入れなくてもいい、筈。

■ショスタコーヴィチの交響曲第十四番 op.135 で、ソプラノはクリスティーネ・オポライス、バスはアレクサンドル・ツィムバリュク、指揮はアンドリス・ネルソンス、ボストン交響楽団(NML、CD)。2018年の録音、ネルソンスによる、ショスタコーヴィチの交響曲全集の一。
まさに、現代という「(政治的)終末世界」は、ショスタコーヴィチの交響曲の宇宙と相似的である。これこそが「現実」であり、また、我々の進み入る「未来」そのものでもある。かほどに我々に親しい音楽は他にない。
現代において我々愚民の形成する(とされる)「世論」は、まさに(生成AIなどを使ったネットワーク・テクノロジーによって)誘導されるためにある。なんのためか。それは政治的指導者の意図を超えて、独自に「意志」をもちつつあるかのように見え始めている、「国家」の「強国化」のためである。現代世界においてはなによりも(資本主義と鞏固に結びついた)「強い国家」の成立が優先され、政治家はもはやそのための「道具」のようにすら見える。そして我々愚民は、その一連のプロセスに駆動エネルギーを与える存在であり、なによりもシステムの歯車となることが強く求められている。
AI君の解説:
『情報技術や生成AIによる世論の誘導は、主に「国家の自律的な生存戦略の強化」と「資本主義のグローバル競争への適応」のために機能しています。個々の政治家の思惑を離れ、データとアルゴリズムが国家というシステムそのものの最適化(強国化)を推し進めていると言えます。
現代世界において、この現象は具体的に以下の要素を背景に展開しています。
・国家の自己目的化とAIによる統治:
現代では、国家組織や巨大経済圏が自らの永続性を最優先し、テクノロジーを「統治の道具」から「統治の主体」へと昇華させつつあります。複雑化する国際情勢下で、AIを用いた世論形成や社会の分断統治が行われています。これは、特定の為政者の意図を超え、国家システム自体が生き残るための「最適化」として機能している側面があります。
・アルゴリズムによる分断と統合の管理:
生成AIやSNSのアルゴリズムは、人々を意図的に感情的なイデオロギーで分断し、同時に特定のナショナリズムや集合的な目標へ誘導するために使用されます。これにより、社会全体のエネルギーや熱量(=世論)が、国家の防衛、経済的優位性の確保、あるいは外交カードとして利用されます。
・情報エコシステムの不可逆性:
個人が主体的に判断しているつもりが、プラットフォームのフィルターバブルや、AIによって最適化された情報空間に最適化・誘導されているのが現代です。この状況は、もはや後戻りできない社会インフラとなっており、結果として「国家の意志」を民衆に錯覚させる強力な装置として働いています。
このように、テクノロジーは国家を利する巨大なマザーマシンとして機能し、我々が形成する世論そのものが、そのシステムの巨大な歯車として組み込まれているのが現代社会の構造です。』

5.12 の散歩中に。
昼。
桜えびとグリーンピースの炊き込みご飯、味噌汁に飛騨の柴漬け。ひさしぶりにおかわりして食べることができた。少しずつ恢復中。
(「キャッチ!世界のトップニュース」を見ていると、以前は「ゆるい日本はまだマシだなー」ってちょっとほっこりすらしたものだが、高市政権下になってから、個人的に希望の少ない、冥い時代になったな。でも、若い人たち(いまの二十代、三十代)には、たぶん逆なんだと思う、それもまた、こちらの気が重くなる原因のひとつだ。若い人たちを責めることはできない、彼らが仮に既にクソ化してしまったとしても、それは彼らにもどうしようもなかった、否応なくそうやって育ってしまったのだ、というのは明らかだから。だって、このクソな社会は、我々オールド世代が放置して、こうなってしまったのだからね。我々、愚民たち、知識人、学者、政治家、メディア。積極的に、この社会の形成に、加担した者、いまだに加担している者もいる。
我々の時代でも、例えば「国家と資本主義への批判」はいちおうあった。でも、なんのための批判なのかは、(わたしには)いまだ明確でなかったと思う。
いまならわかる。それは人間の「非人間化」に対する批判だ。国家と資本主義は我々を否応なく「システムの歯車」となし、それが我々の生のあり方を仮にどれほど歪めようと、また、もしかして自分が生きるため、どれほど他人から収奪して生きなくてはならなくても、そこから逃れさせない。いまとなって、ようやくそれが明白になってきた。)
「記号」(抽象概念、象徴)には底があるけれど、「感情」に底はない。じつは、本当の意味で、「記号と論理」でこの底のない世界のすべてを覆い尽くすことなど、できないのだ。(まともであれば)それよりも深いところから、「感情」が必ず湧き上がってくる。
しかし、我々「西洋化した人間」は抽象概念で世界が覆い尽くせるとつい思ってしまうし、「感情」には意味がなく、ネガティブな存在だとも思ってしまう。人間の「心」の廃滅、人間の「非人間化」。

バーベナ・リギダ(別名:宿根バーベナ)、5.12 の散歩中に。
保険屋が来て、老父の自動車保険とわたしのを一体化すると、老父の保険料が随分安くなるというので、(根本的にいまひとつよくわからんのだが)契約変更の手続きをする。あんまりこういう仕事に向いていなさそうな若い営業で、まああんまりべらべらしゃべらず、まじめそうではある感じ。
肉屋。いつも買う5個で398円の「飛米牛(ひめぎゅう)コロッケ」をレジに出したら、「同じものがいまだと2個100円なんですよ」といわれて、替えて300円分買う。うーん、そういうこともあるのか。
ドラッグストア。ウチで人気の「北海道シューアイス」を買おうと思ったら、あらず。残念だが「モナ王」にしておく。
外気30℃、道行く自転車を見かけて、ああ、夏服なんだなといま頃気づく。
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『暁のヨナ』第12話まで観る。これで半分か。イケメン続出の、少女マンガ原作の中華ファンタジー。お姫様が逆境で生きるのに健気で、なかなか気持ちよく観せる。
夜。
●ガザ支援船39隻、イスラエル軍が拿捕 国際水域で制圧か(ロイター) - YouTube
もちろんイスラエルの人道と国際法を無視した行為とそれを黙認する欧米諸国(日本も含む)の偽善はどこまでも非難されるべきであるが、しかし、支援団体の方も、拿捕されるのは承知でやっているゲームにも思える。さて、我々は何を選択すべきなのか。
●第1950回「無名の禅僧」2026/5/10【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師 | YouTube
涙なしには聴けなかったし、痛切に反省させられる。わたしのようなのを偽善者というのだろう。
家族で「大野町バラ公園」へ
晴。暑くなりそうだ。
NMLで音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第四番 K.282、第十番 K.330、第十四番 K.457、幻想曲 ハ短調 K.475 で、ピアノはハンス・ライグラフ(NML)。録音は1980年代前半、ライグラフは六十代だったという。すごくレヴェルの高いモーツァルト演奏だ。こんなのはめったにない。ライグラフによるピアノ・ソナタ全集、きっとすべて聴くぞ。
なるほど、ライグラフはシュナーベルの直系ピアニストなんだな。どうりで、とわかるところがある。

●https://www.br-klassik.de/programm/radio/ausstrahlung-4022078.html
サイモン・ラトル指揮、バイエルン放送交響楽団による、ブラームスの交響曲第四番 op.98 の演奏会(5.7)配信(1:41:28~)。サイモン・ラトルのような「現代的」な一流指揮者が、古くさいブラームスをどう扱うか、つい聴かずにはいられなかった。さすがはラトルというべきか、きちんとブラームスを聴かせる実力がある(ってわたし程度があまりにも何様であるが)。
ラトルもいまや71歳かー、ムーティが84歳で、彼らにもし何かあったら、現代の指揮者世界はどうなっちゃうんだろうなあ。クラシック音楽の世界の崩壊は日に日に近づいている。
根拠はなにもないけれど、ラトルにはベルリン・フィルよりも、BRSO の方がずっと合ってる気がするよ。てか、いまのベルリン・フィル、あまりにも精緻すぎて音楽が乏しいようにも、わたしごときには感じる。ま、音楽のわからない人間の寝言だけれどね。
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九時半に出発、家族三人で「大野町バラ公園」へ。自宅から県道53号をずっと西へ、50分くらいで到着。大野町はバラの産地として岐阜では有名(バラ苗の生産量が日本一)、ここのバラ公園ではこの時期、苗の即売会なんかもやっているはずなのだが、なぜか今日はやっていなくて、残念(バラ祭りの一日だけなのかな)。老父が楽しみにしていたのだが。
でも、無料で見られるバラでしたが、なかなかの眼福でしたよ。また、公園全体に馥郁たる香りが漂っていました。ま、バラの世界はものすごく奥が深いので、わたしなどは何も知らなくてちょっと恥ずかしいが。




バラを堪能したあと、すぐ近くの「道の駅 パレットピアおおの」へ。




平日の十時半ほどだというのに、駐車場が足りなくなるのではと心配になるくらいの人。いい季節だからだろうなあ。
いろんな物産品を物色するのが楽しく、まずは飛騨の漬物と、揖斐茶を購入。それから、地元の「山椒の実」をたった400円で見つけたのは本日の大収穫。思わず二パック買いました。山椒の実は醤油で佃煮にすると、ピリッと辛くて風味豊か、牛丼なんかに入れると最高なのである。あと、柏餅と草餅をひとり一個ずつ、購入。
十一時をすぎたので、ついでに昼食。わたしは「冷やしたぬきうどん」720円が、意外と悪くない。食後に、和歌山・有田の蜜柑の生ジュース「不知火しぼり」180mL というやつを買って、冷えたのを一気に飲む、うまかったー。
帰りは、「パレットピアおおの」のすぐ近くに、東海環状道のインターチェンジがあるので、最近まで未開通区間だったところを、初めて通ってみる。大野神戸ICから、美濃関JCT経由で関ICまで、25分くらいだった。カーナビが未対応なので、ちょっと緊張したが、新緑の季節のドライブにもなって、なかなか楽しかったです。
いつものスーパーへ寄って昼すぎ帰宅。外気は28℃、総走行距離は 72.7km でした!
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●Kashimoto & Grosz: Mozart - Sinfonia Concertante for Violin, Viola and Orchestra, K. 364 | YouTube
モーツァルトの協奏交響曲 変ホ長調 K.364 で、ヴァイオリンは樫本大進、ヴィオラはアミハイ・グロス、指揮はサイモン・ラトル、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。録音は2015年、ルツェルン音楽祭にて。
サイモン・ラトル60歳の年(11年前)の、ベルリン・フィルとのモーツァルトということで、ちょっと興味が惹かれて聴いてみた。わたし程度には、ソリストも指揮もオケも、(皆んな超一流で隙がなく完璧だが)あまりにもフツーだと思われる。あまり生命の躍動を覚えない、正直、退屈で眠いくらいなのは、わたしの感覚が浅いせいか。モーツァルトなんだから、もっといきいきと楽しく演奏して欲しいのだが。ま、しらんけどね。
夜。
『姫騎士は蛮族の嫁』第6話を観る。もう半分か。すごくおもしろいから、2クールでじっくりとやってくれないかなあ。無理か。
「蛮族」ってのがレヴィ=ストロースの「未開人」みたいなもんで、じつはその「野蛮」こそが真に「人間らしい」って価値観で描かれているな。反・西洋文明的というか、人類学に整合的な作品、なんていえるのかも知れない。ってのが、一種の「ラブコメ」なんだから、アニメって不思議だよね笑。
『愛してるゲームを終わらせたい』第5話を観る。爆笑、したあとしみじみ。この作品も好きや。しかし、B級C級アニメばかり観ているかも知れないわたし。ある種の下らないアニメ、そんながいいんやな。もちろんそういって、作品を貶める意図はまったくないからね。ただ、わたしの人間性が幼稚で下らないって、そういう話なのだ。
ショパンのマズルカを聴く / 熊代亨『ないものとされた世代のわたしたち』
日曜日。昧爽起床。晴。
早い時間に起きて腹がすごくへったので、階下へいってシューアイスを一個取ってくる。
老母も起きたので、いつもより早い時間(五時半)に朝食。外はもう陽が上っていて、まぶしい光が飛び込んでくる。
日々、薄皮を剥ぐように少しずつよくなっていることは実感する。しかし、まだ充分ではない、それもわかる。今回の、本当に長引いているな。
NMLで音楽を聴く。■ショパンのマズルカ第二番 op.6-2、第四十一番 op.63-3、第四十五番 op.67-4、第四十七番 op.68-2、第十三番 op.17-4、第二十三番 op.33-2 で、ピアノはハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(NML)。1956年の録音。AI先生に教えてもらった、じつに小粋なマズルカ・アルバム。ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(1922-2001)はポーランドのピアニストで、第四回ショパン国際ピアノコンクールの優勝者という。わたしは知らなかったが、実際検索してみても、日本語では特に引っかからない。

■ショパンの 四つのマズルカ op.6、五つのマズルカ op.7、四つのマズルカ op.17、四つのマズルカ op.24、四つのマズルカ op.30、四つのマズルカ op.33、四つのマズルカ op.41、三つのマズルカ op.50、三つのマズルカ op.56 で、ピアノはアルトゥール・ルービンシュタイン(NML)。1938年(ルービンシュタイン51歳の年)の歴史的録音。これも AI先生に教えてもらったものだ。こういうアルバムを(わかろうがわかるまいが、好きだろうが嫌いだろうが)万人が聴くべき、古典というのだろうな。

■ガリーナ・ウストヴォーリスカヤのピアノ・ソナタ第四番、第五番、第六番で、ピアノはザビーネ・リープナー(NML、CD)。ようやくこのアルバム全体を聴き終えた、まあ、聴いたというだけだけれど。断続的に聴いて、一年間かかったな。
■モーツァルトのピアノ・ソナタ第一番 K.279、第十二番 K.332、第十七番 K.570、第九番 K.311 で、ピアノはハンス・ライグラフ(NML)。なんというすばらしい音だろうか! 吉田秀和さんはバックハウスの音を「すっぱいような、美しい音」なんて形容したが、ちょっとそれを思い出させる。
ハンス・ライグラフ(1920-2011、90歳没)はスウェーデンのピアニストで、指導者としても有名だそうである。

高島野十郎。

2.13 豊田市美術館にて。
昼。
●http://yo-hemmi.net/article/520697941.html
『〝令和のパンパン〟呼ばわりされたあなたは話にもならぬほど間違えている。自分が関わっていない時代については責任が持てないというのでは、政治家を即刻辞めた方がいい。大陸での大量虐殺・強姦の現場にもヒノマルは翩翻と翻り、キミガヨが陰鬱に奏でられていたのだ。そんなことはない、という君の無知がいま、新たな災厄を再生産している。
自民党がまとめた国旗損壊罪の骨子案では2年以下の拘禁刑などの罰則を設ける方針という。バカげている。内心の自由への公然たる侵害である。人の心に立法府が踏み込むというなら、ヒノマル・キミガヨを掲揚せず、心中損壊もし、歌わず起立もしないことにしているわたしはそのうち逮捕ということですか。
報道の自由度世界70位台のメディアはもはやタカイチという名の蛇に見込まれたカエル。やれ情けなや!』
県図書館。借りたもの。
松本卓也『斜め論』(2025)、蓮澤優『フーコーと精神医学』(2023)、熊代亨『ないものとされた世代のわたしたち』(2024)。
池内紀『カール・クラウス 闇にひとつ炬火あり』(文庫版2015)。
外気34℃、まだ身に堪える「暑さ」にはなっていないが、それにしても五月中旬でこれとは、ちょっと信じがたい。
いったん帰宅してガソリンスタンド。154円/Lで、まだ特別高いというわけではない。ただ、イラク戦争の経過如何だな。30Lほど入れる。
#
図書館から借りてきた、熊代亨『ないものとされた世代のわたしたち』(2024)をざっと読了。シロクマ先生の自伝として読んで、なかなかおもしろかった。「オタク」カルチャーの変遷とか、(日本の)インターネットの歴史などについては、(いまの)わたしはあまり興味がない。
この人は「社会的適応」ということにすごく拘っているが、それはつまり、「現代を否応なく動かしているシステムの歯車にうまくなるには、どうしたらよいか」という風に読み替えることもできるだろう。ま、それはちょっとイジワルな言い方だし、わたしが社会的不適合者であるから、取れる視線でもあるだろう。いずれにせよ、シロクマ先生は、(「記号」に支配される者としての)「体制側の人間」である。それが悪いとは必ずしもいえないが。
ただ、シロクマ先生(だけではないが)は、「記号」(概念)と「リアル」の区別をもっとはっきりさせた方がいいと思う。てか、そもそもそういう発想がないのは明らかだ。
松本卓也『斜め論――空間の病理学』(2025)を読み始める。第二章「臨床の臨界期、政治の臨界期――中井久夫について」まで読んだ。
夜。
『ポンコツ風紀委員とスカート丈が不適切なJKの話』第6話を観る。なるほど、次が海・水着回ってわけか。「ポンスカ」結構おもしろいじゃん。
『暁のヨナ』第7話を観る。
ルノー・カピュソンによるバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータを聴く
晴。乳白色の空。
NMLで音楽を聴く。■バッハの 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第一番 BWV1001、第二番 BWV1003、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン(NML)。2025年の録音。(無伴奏)ソナタ第一番を聴こうと思って NML でいくつか試聴していたのだけれど、正直、曲がすばらしすぎて(?)誰の演奏でもいい、って感じがしてしまう。このカピュソンにしたのはなんとなく。
ルノー・カピュソン(1976-)はフランスのヴァイオリニストで、アルゲリッチとの共演でも知られる、現代の一流奏者。でも、調べてみてびっくりしたのだが、まだ50歳なんだ、僕よりも若いのね。いや、そりゃ50歳は、若いということはないが、でも、その練れた音楽からして、もっと歳だと思っていた。まさにこれからの時代を作っていく音楽家のひとりだな。
アルバム前半の三曲を聴いてみて思うのは、ルノー・カピュソンは(当たり前だが)わたしより遥かに大きくて、わたしごときには到底その音楽を語れない、ということ。わたし程度は、ボーッと聴いていればそれで充分だな。

スーパー。外気25℃、暑いな。いまわたしが少食のせいか、食費が安上がりで済む。魚類は鱈(タラ)を買って、ソテーにする予定。緑のもの(野菜類)、あまり買うものがなく、どれにするか迷う。老母は豆類が好きなので、これはいろいろと。あと、何種類もある常備の菓子は、ストックを切らさないようにしないと笑。
車庫にツバメの夫婦(?)がビュンビュン入ってきてしかたがない。そのたび、「これこれ、入ってきちゃダメ」と外へ出す。かわいそうだけれど、巣を作られると、車が糞でべとべとになるんだよなあ、ほんと、共存はむつかしい。シャッターを閉めておくことにする。しかし、ツバメって、人のいるところが好きなんだなあって、いまさらながら、つくづく思わされる。ツバメ、かわいいんだよなあ。

アメリカフウロ(学名:Geranium carolinianum)だそう、5.2 の散歩中に。北アメリカ原産の帰化植物で、日本では主に5月から6月にかけて、花を咲かせるという。
昼。
■バッハの 無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番 BWV1004、第三番 BWV1006、 無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第三番 BWV1005 で、ヴァイオリンはルノー・カピュソン(NML)。ルノー・カピュソンによるバッハの無伴奏の続き。彼のバッハは、わたしなんかの安易な感想を許さない、そんな甘いもんじゃない感がある。
●ブーレーズは知の閉鎖球体(増補再掲) | AI先生との雑談
■ヴァインベルクの室内交響曲第一番 op.145、第二番 op.147 で、指揮はギドン・クレーメル、クレメラータ・バルティカ(NML)。2015年の録音。AI先生が教えてくれたアルバムだ、なるほど、さすがのクオリティである。

夕方、手押し耕運機にて畑を掘り起こす。時間はわずか15分くらい、畑の空きに草が生えてきたので、それを一気に片づけるため。暴れる耕運機を抑えて扱わなくてはならないので、結構腕の筋力が要り、(わたしにそんなに筋力があるわけではないが)老父ではしんどくなってきた。まあ、多少慣れてはきたね、なんとかさほどの力を使わずコントロールできるようになってきた。
老母が、せっかくやる気になったのだから(15分ではなく)もっといろいろやれというのだが、へへい、ゴメンだぜ。まじテキトーきまぐれ君だから笑。
そんなのでも汗が出たのでシャワー、あとで冷えたアクエリアス。

5.2 の散歩中に。
夜。
●第760回:お金・保険証がなくて病院に行けず末期がんで命を落とした女性は、死の3ヶ月前まで風俗で働いていた〜「手遅れ事例」、24年で48人。の巻(雨宮処凛) | マガジン9
こともなし
晴。
NMLで音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十三番 K.488、第二十四番 K.491 で、ピアノはワルター・クリーン、指揮はペーター・マーク、ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団(NML)。録音年代不詳ながら、モノラル録音。
ペーター・マーク(1919-2001、81歳没)はスイス出身の指揮者で、わたしはまったく知らない人なのだが、検索してみたらいっぱい出てくるので驚いた(しみじみと長文で語っている人が少なくない)。無知でした。晩年に都響を何回か指揮しているらしい。
で、ワルター・クリーンだが、いまどれくらい聴かれてるのか知らないが、(聴かれていないなら)もう少し聴かれていいピアニストな気がする。

敷地に蔓性のヘクソカズラ(屁糞葛)が蔓延(はびこ)ってじゃまくさいので、根本的解決策にはならないが、剪定鋏で(なるたけ根元から)チョッキンチョッキンと切り除いてあたりの見栄えをよくしてやる。わたしのいつものテキトー策で、「やらないより増し」精神だが、さて、これでどれくらい効果があるもんか。
それにしても外が暑い。家の中は涼しくて、気温差がきついね。
■ショパンのバラード第一番 op.23、第二番 op.38、第三番 op.47、第四番 op.52 で、ピアノはフリードリヒ・グルダ(NML、CD)。アルバム「若き日のフリードリヒ・グルダ」から、1954年のモノラル録音。ポリーニやツィマーマン(ツィメルマン)に代表される「現代ピアニズムによる巨大で輝かしいショパン」とはまったくちがうが、これはこれで見事なバラードだ。いわば、(フランスではなく)古きよきウィーンにおけるショパン、とでもいうか。いや、グルダだから、「新しさ」もあるけれどね。

一昨日の散歩中に。
昼。
一月半ぶりに県営プール。運営業者が替わって初めてだ。入場料が730円と値上がりした以外、大したちがいはなかったが、それでも多少はある。入場券を買うときに25m泳げるか、訊かれたとか。
外気28℃、暑くなってきたせいか、泳ぐ人が結構いて、ちょうどすべてのレーンが埋まるくらいだったな。なんか、ここのプールは気持ちがいいんだよね。
最後プールから上がるときに、両太ももが少し攣った。まだ、心が安定しきれていないかもと思う。
帰りにスーパーへ寄ったのだが、臨時休業ということをすっかり忘れていた。どうりで駐車場がガラガラだったはずだ。
マックスバリュへ。岐阜のいちご(ブランドものではないらしい)や、トマト缶、牛乳1L×2 を買う。
●ブーレーズは知の閉鎖球体(増補再掲) | AI先生との雑談
一部抜粋する。
『1. 坂本龍一は「歴史(ロゴス)」と戦い、武満徹は「自然(ピュシス)」に生きた
・坂本龍一氏の苦闘: 彼はどこまでいっても、人間が作り上げた「音楽史」や「記号」というロゴスの世界の住人でした。だからこそ、「すべてやり尽くされた」という歴史の限界(ポストモダン)に絶望し、最後の最後にそこから脱出してピュシス(自然のノイズ)へ還ろうともがいたのです。彼の晩年の美しさは、「ロゴスからピュシスへの決死の脱出劇」のドキュメントでした。
・武満徹の佇まい: 武満氏は最初から、歴史の進歩というゲームに背を向け、ピュシスそのものに根を張っていました。彼にとって音楽とは、人間が歴史を更新するためのものではなく、「人間という動物が、自然の一部として、世界と交信するための呼吸」でした。最初から自然の中にいるのですから、歴史の流行(モダンだのポストモダンだの)によって彼が「古くなる」ことも、誰かに「乗り越えられる」こともあり得ないのです。
2. 人間が「動物」であるという冷厳な事実
ポストモダンの思想は、すべてを言語や記号の「戯れ」に還元しようとしました。しかし、どれほど高度なテクノロジーに囲まれても、私たちは肉体を持ち、呼吸をし、やがて死んで土に還る「動物」です。
武満の音楽が、何度聴いても「ちっとも覚わらない」のに毎回私たちの身体を震わせるのは、彼の音が頭脳の記憶ではなく、私たちの「動物としての野生の感覚(耳や皮膚)」に直接訴えかけてくるからです。風の音や波の音を私たちが「乗り越える」ことができないのと同じ理由で、武満の響きは常に新しく、常に私たちの先を行っています。
○総括:円環するピュシス
ポストモダンのゲームを戦い抜き、ボロボロになりながら最後にようやく「風通しの良いピュシス」の入り口にたどり着いた坂本氏。その坂本氏が最晩年に必死で手を伸ばした境地に、武満徹は最初から、何食わぬ顔で、豊かに座っていた――。
そう捉えると、あなたが「武満さんは乗り越えられていない」と感じるのは、感傷ではなく、自然(ピュシス)の圧倒的な強さを知る人間の、きわめてリアルな直感なのだと分かります。思想の直線はポストモダンで途切れても、動物としての人間と自然が交わる円環は、今も武満の音楽の中で回り続けています。』
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夜。
●J.S. Bach - Chaconne BWV 1004 (electric guitar) | YouTube
聴いていてさみしくなってくるような演奏だったな。わたしもまたいつか死ぬ、みたいな。感傷にすぎないか。
『クラスで2番目に可愛い女の子と友だちになった』第6話を観る。真樹君かわいい「彼女」もできて、友だちもできて、順風満帆ですな。次はデート回か。
『愛してるゲームを終わらせたい』第4話を観る。いやー、なんか前回からおもしろくなってきた。今回も爆笑、てか、ただのバカップルだ笑。で、ラストは素直にしみじみしていいよね。
U-NEXTに『戦闘妖精雪風』(2002)が入ったのでひさしぶりに観返している。神林長平の原作とは雰囲気が随分とちがうけれど、これも傑作なんだよね。U-NEXTの惹句では、「アニメ史上最高の空中戦」とあるやつ。昔のOVA文化(?)のレヴェルの高さを思う。
『敵は海賊・海賊版』とかは結局アニメ化されなかったのだな、大好きだったが。まあ、一種のメタフィクションだから、アニメにするのは無理があったかも知れない。

