「物語批判」の無力さ

晴。
 
蓮實重彦大塚英志の「物語批判」、また柄谷行人なども含めてよいと思うが、それが行われたあとも、大洪水のような物語の氾濫はますます加速しているという意味で、それは無力だった。確かに大量の物語に浸っていると、知性の営為として「物語批判」、物語の解体はついやってみたくなるんだよね。いや、それはそれでやればいいのだけれど、大洪水のような物語の氾濫という状況は何も変わらないし、そもそも変えなければいけないということもない。我々幼稚な人間はなぜか物語を欲しているのだが、なぜそうなのか、まだそれは解明されていないような気がする。
 快楽としての物語。これはわかりやすいが、なぜ物語が快楽をもたらすのかは、まったくわかりやすくない。
 ここではない、どこか別の場所へ、という、逃避としての物語。
 麻酔薬としての物語? 確かにそういう側面はあるだろう。我々を家畜化、奴隷化する現代というものを受け入れるには、個々人に対応した物語が必要だ。
 結局、我々は無意味な人生に意味を見出したいのだと思う。それを与えるのが物語だ。
 

 
いい天気。
昼から県営プール。長良川の堤防道路から、遠くに冠雪した伊吹山や、伊吹山地が見える。長良川金華山も。この目で映像を切り取れたらよいのにと思う。
 外気11℃で暖かい。なので、温水はお湯ではなく、少し冷たくしてあった。
 帰り、岐阜グランドホテルの前を通ったら、リクルートスーツ姿の学生たちかしらん、たくさん屯(たむろ)していた。就職説明会でもあるのだろうか。
 
何もかもどうでもいい感じ。といっても別に自暴自棄になっているとかではなく、遠くになにかもやもやと見えていて、でもそれがそもそも語りうるものなのかも、わからない。
 
金柑を食う。


オオイヌノフグリ

ホトケノザ(仏の座)。
少しずつ春が近づいている。
 
NML で音楽を聴く。■シューマンの「子供の情景」 op.15 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。

■バッハのチェロ・ソナタ ト長調 BWV1027 で、チェロはミッシャ・マイスキー、ピアノはマルタ・アルゲリッチNML)。 
夜。
『呪術廻戦』の渋谷事変を読んでいたのだが、凄惨な殺し合いが延々と続いて飽きた。世界的な人気作で、皆んな、こういう殺し合いのインフレーションが大好きなんだな。まあ、こういうヒロイズムにやられるのはわからんでもないが、とにかく、時代遅れの田舎者のおっさんはついていけないや。