記号の多様性と世界の多様性

日曜日。晴。暖かい。

いろいろ考えたのだが、女性差別LGBTの観点から、男らしさ女らしさという発想はすべて解体されざるを得なくなるのだろうな。いや、男は男、女は女でちがってよし、ただ女性差別がなくなればよいというものだろうといわれるかも知れないが、それはたぶん、アマい考えである。男らしさ女らしさという発想は、一種の強制、刷り込みを伴わねば済まぬ話だからだ。その「刷り込み」に堪えられない人がいる、かかる人を救うというのがマイノリティ保護というものだからである。であるとして、かつての男らしさ女らしさという発想には、随分とよいところもあったと思うし、わたし自身は古い人間なので、ある種の男らしさを体現しようという思いはこれまで自分の根底にずっとあった筈である。しかし、それらもまたすべて失われるもの。古くさいおっさんとしては、残念なところが多いが、時代は変わっていくものだ。それにしても、これからの世代の男女関係というのは、どうなってしまうのだろうな。女性も、「いつか自分にもきっとわたしの王子様が現れる」なんて古くさい夢をもっちゃあいけませんよ、たぶんね。
 しかし、文化的な「刷り込み」というものとアイデンティティの間には切っても切れない関係があるので、そこらはまたむずかしい話だ。わたしはまだそこまで考えていないが、文化的な「刷り込み」すべてが悪いということはなかなかいかないだろうと思う。それを廃絶してしまえば、我々は真空状態の中で身動きが取れなくなってしまうだろう。文化的な「刷り込み」即ち文化的な差異の体系の獲得であるから、差異の体系のなかで確率的に獲得されるところのアイデンティティというものも同時に消滅してしまうのである。ま、わたしは何でもない空疎な人間なので、「アイデンティティ」なんてものがどうなろうとあんまり気にしないが。

よく考えると、記号の多様性などは解体・縮減されてしかるべきかも知れないな。記号の多様性はむしろ世界の多様性を損なっているように見えるから。世界は抽象的な記号で過剰に覆われ続けていく。無意味な記号。記号の多様性よりも世界の多様性を尊重すべきであろう。もちろん、世界は記号の体系とはちがう、決して同一視してはならない。そこは当り前のことだが、何度も徹底して確認されるべきである。

じゃあ、井筒先生の仰っているコトバ、とは? 本質(essentia)。無と本質。

スーパー。

昼食は老父と丸亀製麺イオンタウン各務原にて。とろ玉大+えび天+いか天。

いい天気だったけれど、半日部屋でごろごろ。
老母のPCR検査は陰性。

夕飯はソーセージとほうれん草と卵の炒め物、椎茸のチーズ焼き、蒲鉾キムチあたりをテキトーに作って、老父と食う。老母は断食(笑)。


ゼロの使い魔』最終話まで見る。

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