差別と言葉

日曜日。曇。

花粉が飛び出して目がかゆくなってきた。
ごろごろ。

スーパー。

昼寝していたら暑いくらいだった。
小鳥たちも恋の季節らしい。

アンリ・ピレンヌ『ヨーロッパ世界の誕生』第一部読了。どうでもいいけれども、本書によく出てくる「ティリア海」というのが、検索してもわからないのだが。イタリア近辺における地中海を指す、古代的名称であるか。(後記。そうでした。現在はふつう「ティレニア海」 Tyrrhenian Sea という。)

NML で音楽を聴く。■ニコライ・ミャスコフスキー(1881-1950)のピアノ・ソナタ第二番 op.13 で、ピアノは ザビーネ・ウェイアー(NML)。なかなかおもしろい。また「怒りの日」かよって気もしないではないが。

Mysteries

Mysteries

ハイドン弦楽四重奏曲第六十四番 Hob.III:79 で、演奏はキアロスクーロ四重奏団(NML)。■バッハの「イタリア風アリアと変奏」 BWV989 で、ピアノはキアーラ・ベルトーリオ(NML)。
Bach & Italy Vol 2

Bach & Italy Vol 2

エリオット・カーターのフルート、オーボエ、チェロとチェンバロのためのソナタで、演奏はアンサンブル・コントラスツ・ケルン(NMLCD)。

先程ツイッターを見て、いろいろ考えた。アイデンティティ・ポリティクスという概念が流通するようになって、世界がよくなったという考え方がある。それはそうだ。マイノリティの感じる不愉快さに光が当たるようになり、マイノリティに対する差別がよくないことだという考え方が一般化したのだから。それは疑いなくよいことである。
 しかし、それは「正義」というものと不可欠だ。正義は思考停止と切っても切れない関係がある。正義はよく考えた上でなくても振り回すことができる。例えば今回の森会長辞任劇で、「オリンピック精神に反するから残念」とか何とか言ったアスリートが少なからずいた。「オリンピック精神」とは、笑止! オリンピック精神とやらの本質は、ひとつは商業主義、ひとつは単に自分が世界一になりたいという欲望ではないか。それらがいけないとはわたしはまったく思わないが、それが女性差別と何の関係があるのか。それは、わたしというバカには思考停止に見えてしまうのだ。本物の正義派だったら、そんな浅はかなことは言わない。わたしだって、真の意味で差別と戦っている人間に敬意を抱くに吝かではない。しかし、問題とは関係のない安全地帯から正義を振り回す正義派気取りは、どうもあまり好きになれない。自戒である。

ややこしいのは、「マイノリティに対する差別はよくないこと」というのを不愉快に思う人がマジョリティにたくさんいるということだ。日本のネトウヨアメリカのトランプ前大統領の支持者層などがそれである。わたしは正義がかなり好きではないが、彼ら彼女らもまたそうであり、その意味で似ている。さて、果たして両者はちがうのか、否か? まあ、どうでもいいんだが。

ちょっと大きすぎる話かも知れないが、言葉がある以上、差別というものは決してなくならない。名づけるという行為自体、名づけられたものとそれ以外のものを分断することだから。別の言い方をすれば、人は区別したがる動物であり、また優劣をつけることからなかなか脱却できないということである。差別はその延長線上に自然に生じる。逆に、差別をなくすというのは何らかの区別をなくすことに他ならない。つまり、言葉を解体することでもある。

例えば、女性差別を解消するというのは、男女という言葉を解体することである。それがジェンダーということの本質だ。かかる考え方が勝利したゆえに、生物学的に男女がちがう一方で、実際に男女の区別がなくなろうとしつつあるのが現代だ。それに対する強いバックラッシュも生じているけれど、大勢はもはや変わらない。生物学的云々といっても、ムダなことである。それは既に若い人たちの性に対する感覚も変容させている。
 しかしまあ、こんなことはわたしからすれば、あるいはどうでもいいことだ。皆んな好きにすればいいと思う。これから、もしわたしが「女性」と関わることがあれば、そのとき考えよう。

犬夜叉』第28巻まで読む。

犬夜叉 (24) (少年サンデーコミックス)

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