宮崎哲弥『仏教論争』 / 東浩紀&市川真人&大澤聡&福嶋亮大『現代日本の批評 1975-2001』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。バッハをピアノで弾いたのが好きな人は、是非シュ・シャオメイを聴くといいよ。これほどこなれたバッハはなかなかないよ。■マーラー交響曲第六番で、指揮は小澤征爾ボストン交響楽団NML)。死んだ。疲労困憊。自分は精神の器が小さいので、マーラーはほとんど限界である。それにしても、小澤征爾…。この愚直さは天才とすら言いたくなるほどだ。自分には小澤征爾の限界がよくわからないのである。この演奏では、緩徐楽章が特に小澤の資質の美点をあらわして絶品だった。終楽章は、既に書いたとおり自分にはあまりにしんどい。たぶん、マーラーはモダンの限界点のひとつだと思う。しかし、自分がわかるって自惚れているわけではないのだけれど、これがわかるひとがどれくらいいるのだろうか。え、皆んなわかりますか? そうですか。

小澤征爾: マーラー交響曲全集 14枚組

小澤征爾: マーラー交響曲全集 14枚組

アマゾンのレヴューを見ていたら、「繰り返し聞いても飽きず、疲れません」とか「ゆっくりと時間が流れるときにバックミュージックとして聞いております」とか、何だろうね。マジ? 皆んなすごすぎやしませんか…。

マーラーを聴いて、で昼飯に焼きそばを食ってぼーっとして、天気は爽やかに晴れていて(少し涼しい)いい気分。ちょっところがるか。

最高にいい日和なので、外出する。といっても本屋(笑)。もっと気の利いたところへ行けばいいのに。
今日はわりと元気があるので、自分の趣味から離れた本を買う。わざわざむかつく(であろう)ために読むのである。
一方で、「群像」の中沢さんの連載を立ち読みし直す。もう買った方がいいかな(笑)。「アーラヤ識」におけるロゴス的知性とレンマ的知性の(中沢さんのいう)「スペクトル分解」というのは、これはちょっと聞いたことがないのだが。唯識にも「大乗起信論」にもなかったのではないか。非常に深いものを感じる。もしかしたら中沢さんのオリジナルな考えなのだろうか。もとよりこれは、自分の浅はかな感想。また、今回は華厳のレンマ学的解説もあるが、「事法界」「理法界」「理事無礙法界」はいいのだけれど、自分には昔から「事事無礙法界」がわからない。これが自分のレヴェルであろう。中沢さんの説明でも、どうも判然としない部分が多い。「事事無礙法界」の相即貫入はアーラヤ識を土台にしない。だから、すべての生命体が存在しなくなった将来の無の宇宙(これは長い年月のあとに確実に到来することが物理学でわかっている)でも、「事事無礙法界」の全体運動は止まないというのである。うーむ。むずかしい。なお、「数」が「理事無礙法界」の最高の存在と本文にはあるが、これも謎である。「事事無礙法界」の誤植かなと思ってしまうのであるが。
まあよい。ゆたさんに勧められたマンガを延々と探していたのだが、いまのマンガが大量に置いてあって自分にはキモすぎる。ぐるぐる何周も歩きまわってようやく見つけたのでホッとした。いや、いまのマンガをふつうに読む人にはこちらがキモいおっさんなのはわかるのだが。これでも学生の頃まではよくマンガも読んだのですけれどね。おそらく、冊数だけなら活字本(?)に匹敵するくらい読んだと思う。でも、ちょうど地下鉄サリン事件とか阪神・淡路大震災とかのあった頃からマンガが変って、ふっつりと読まなくなった。たぶん、自分にはもう無理ですね。


宮崎哲弥『仏教論争』読了。これは非常におもしろかった。日本における「縁起」論争を解きほぐし、最終的には(その名は慎重にしか発言されていないが)中沢新一(ら?)の全否定にもっていくという書物であろう。いや、中沢など下らなさ過ぎて、固有名詞を挙げる必要すらないという態度かもしれない。少なくとも、南方熊楠鈴木大拙井筒俊彦らに仏教的な意義を読み込む論者を簡単に唾棄している(p.304)のはまちがいない。じつに現代的な態度であると思う。
 まずどうでもいいことを書いておくけれども、本書は「縁起」に関する著作であるが、その過程で「空」が存在しないものであることが、「中論」のナーガールジュナを引いてなど、再三に強調されている。なるほど、「空」を実体視することは、初歩的な誤りであるが、これもまた「便法」にすぎないことは一応注記しておこう。例えば大乗仏教の有名な「般若心経」には「色即是空、空即是色」の文句があるが、「空」の文字があるから「般若心経」は誤りであるというのではつまらない。少なくとも、存在分節以前の何とも名付けられないものを「空」と呼ぶのは、自分には誤りとは思えないし、たぶんそれにはナーガールジュナも賛成してくれるような気がする。もっとも、私はバカなので、「中論」すらよく知らない。
 また、宮崎氏は「空」の存在を徹底的に否定しつつ、「無常」は存在する、とする。そして「無常」は概念ではない、「厳密には、無常は言葉によって表現することさえできない。然るにそれは感得し得るのである」(p.266)と述べている。「無常は、ただ私達の投げ込まれた状況であり、苦の根本因として現前しているだけだ。」(p.267)宮崎氏の気持ちはわかるが、形式論理的に氏の論法が神秘主義と同じなのは氏も理解し得るのではないか。もちろん自分の指摘はじつに下らなく、氏は自分より遥かに頭がよいけれども、こんなむずかしい書物を書かれるのだから、土台をしっかりさせておくべきである。
 しかし思うが、氏の論争解説を読むと、現代の仏教がほとんど死に絶えていると感じずにはいられなかった。氏は、仏教と東洋思想の息の根を止めることにそのすばらしい全能力を傾注しておられる。無学で頭の悪い自分などは、おろおろするばかりだ。こうなると、自分が「仏教」だと思っていたものは、どうも「なんちゃって仏教」にすぎなかったとも痛感される。だって、鈴木大拙まで仏教者ではない、(おそらく氏としてはエセ仏教者)というのだから! まったくすばらしい時代が到来したものだ。まあしかし仕方がない。自分は自分の「なんちゃって仏教」をこれからも追求していくことであろう。で、はっきり言っておくが、自分には「縁起」というものはよくわかりません。よくそんなで、「仏教」云々といえるものだと呆れられることであろう。もっともなことである。とにかく、本書は一読の価値がありますよ。

仏教論争 (ちくま新書)

仏教論争 (ちくま新書)

結局本書の意義は、仏教と東洋思想の息の根を止めようとする現代的試みのひとつであるということだろう。この潮流はますます続いていくにちがいないし、実際に仏教は死んで「本物の仏教」の華が咲き乱れることになろう。そしてそれは、本書に示されたとおり、文献学的な厳密な学問的手続きの中で達成されるにちがいない。いや、もはや達成されたともいえるだろう。未熟者の自分には何とも仕様のないことである。残念ながら、自分には本書を論破する力はないのだ。

それにしても、宮崎氏は仏教を何かおそろしく深遠なものと見做しておられるのではないか。悟ったら何か世界が一変するというような…。まあ「悟り」は自分もよく知らないが、…いや、もうやめておこう。何を言ってもむなしい。これは虚無主義ではなく、たんなる自分の力不足の痛感である。仏教の扱うのはとにかくふつうの我々の世界である。高度な文献学的知識は(ある方がもちろんよいが)なくてもわからないことはない、筈である。いや、これももはや言ってもムダであろう。

未熟者のひとりごとであるが、宮崎氏を読んでいると複雑骨折というか、とにかく勉強のし過ぎで頭の中がむずかしい言説でいっぱいになっているのを感じる。もちろん勉強はしないといけないが、言っても仕方がないのだけれど、ものすごい煩悩を蓄積していてどこから矢を抜いたらよいのか、自分などには見当もつかない。そして、これが他人にわかってもらえるか疑問なのだが、宮崎氏は100階建て以上の壮麗な巨大ビルディングなのだが、1階のあたりは掘っ立て小屋のような現状なのである。たぶん宮崎氏には、例えば真宗の「妙好人」とか、まったく仏教とは関係のない人間と思われるのではないか。とにかく頭の中がむずかしいことでいっぱいだから、どうしようもない。しかし、確かに仏教にはむずかしく難解な部分もたくさんあるけれど、そういうむずかしいことを知っている仏僧も、本物であれば土台がおろそかであるということはあり得ない。まあこんなことを書いても無意味だが。ただただ自分が未熟者であると痛感するのみである。自分には宮崎氏を救うことはできない。ごめんなさい。

あー、やだなー、エラソーなこと書いた。


東浩紀市川真人&大澤聡&福嶋亮大現代日本の批評 1975-2001』読了。言葉が軽すぎて、意味内容が取れない。もう、自分はこういう世界から離れてしまったな。不毛な世界。まさしくこれが現在(アクチュアル)だ。自分の時代遅れたることを感じる。

現代日本の批評 1975-2001

現代日本の批評 1975-2001

古くさい言葉を使ってみると、本書ではほとんどシニフィエから切り離された無数のシニフィアンが、高速度でめちゃくちゃに乱舞している。ゆえに、シニフィエが限りなく希薄化している。冗談をいっておくと、これが「悟り」なんじゃないかね(笑)。この人たちはまさしく「覚者」たちなのだ! 日本人が無意識の領域からして西洋化し終えたのを感じる。いや、ちがうかな。