貞包英之『地方都市を考える』/藤原亮司『ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:パルティータ第二番 BWV826(ヒューイット、参照)。
散髪。
うどん「恵那」にて昼食。恵那ころ蕎麦。もう恵那に行くこともあまりなくなりそうで、食べ納めではないけれど、ちょっとそんな感じ。

図書館から借りてきた、貞包英之『地方都市を考える』読了。副題「『消費社会』の先端から」。一読して驚いた。地味な一次資料の集積に近い本という期待で借りてきたのだが、実際は鋭い社会学的考察が多数鏤められた、非常に優秀な書き手による本だった。僕は著者については何の予備知識もなしに読んだが、この著者ならば、考察・記述の対象は別に「地方都市」に限らないことだろう。なにせ、地方都市の考察に中上健次阿部和重が出てくる本は、相当の知性がないと書けないことであろうから。
 しかし本書は、優秀な研究者が著名(あるいは非著名)理論を振り回して観念の適用に終始するような、頭でっかちな本だとは云えない。自分にはわからないことであるが、一次資料への目配りも怠りないように見えるし、考察の幅が広い。安易に既成研究を鵜呑みにもしていないようだ。要するにこれはかなりの好著なので、地方問題に関心のあるような方は読んで損はないとお勧めできる(ただしリテラシーは必要)。まあ自分は地方都市に住んでいて、地方問題にも少々の関心があるにすぎないが、はっきり言っておもしろかったというか、驚いたというか、楽しい読書でした。結論的には、地方に住むというのは決して悪い選択ばかりではないが、まあ日本そのものがおわってきているし、その意味ではやはりこれから地方で生きるというのはパラダイスに住むわけではないというところであろうか。わかったようなわからんような結論でスミマセン。別の言い方をすると、地方で生きるというのはそんなに楽しくはない可能性が高いが、都会に住むよりも意外に暮らしはラクかもという感じかな。そうそう、本書でおもしろかったのが、いま都会(特に東京圏)で暮らす人は、地方で暮らすのを何か地獄で暮らすかのように考えている傾向が強いということでした。うん、僕もそんな(彼ら彼女らがそんなふうに考えている)気がする。近年、東京圏から地方へ移り住む人の割合が相当に減っているのだって。東京地元志向とでもいうべきかな。

地方都市を考える  「消費社会」の先端から

地方都市を考える 「消費社会」の先端から

ただ、もう少し地味な「地方本」も他に読んでみたいですね。いずれにせよ、図書館に入っていなければ手に取らなかった本である。
本書のネットでの反響を見てみた。僕が見たかぎりでは、すべて東京在住の人たちだったと思う。それらについての感想は書かないが、それにしても思ったのは、どうして自分はこうも東京(圏)の人間を観念的に嫌悪するのだろうということだった。まあ端的に修行が足りないわけだが、それにしてもと思う。東京(圏)に住んでいるだけで悪いとか、殆ど常軌を逸していると思われるのに。まったく愚かですなあ。
でも、自分が敬意を抱く人たちもたぶん多くが東京人なのだよね。矛盾している…。
しかしまあ、自分は地方に住む人間としては典型的ではないね。地方人としては、郊外の巨大ショッピングモールは救いの神でしょう。あそここそ、地方人の神殿なのだ。しかるにあそこは、独身中年男性の自分にはどうでもいい場所である。ただ、郊外の中規模書店は利用するが。だから、郊外は関係ないとは云えない。

図書館から借りてきた、藤原亮司『ガザの空の下 それでも明日は来るし人は生きる』読了。本書を読んでいて二度ほどこみ上げてくるものがあったが、それについては書くまい。二〇一四年夏のガザ攻撃に関するルポには、ジワジワと忍び寄ってくるような恐怖、正確にはむしろ驚きを感じた。本書は殺戮に満ちているが、それまでは殺すのは「イスラエル人兵士」たちだった。彼らの殆どはパレスチナ人に敵意を抱いていたが、それでも自分の手によって殺すのだった。だからその中には、その行為を疑問に思う者が(圧倒的少数にせよ)出てくるのであり、実際に著者はそのようなイスラエル人兵士たちに接触を試みている。しかし、二〇一四年夏の攻撃では、生身のイスラエル人兵士の姿がまったくない。ハイテク兵器による、遠隔地からの「効果的な」殺戮のみがあり、肉体の接触がない。このような「戦争」になり、事態は無意識レヴェルで大きく変ったように思えて仕方がない。イスラエルでは(市民レヴェルでも)人を殺しているという感覚が希薄化し、またガザですら、敵意以上に無気力がすべてを覆っていったように見える。リアルな敵の見えない、ゲームのような殺戮、また家畜のように無気力に殺されるということ…。人間というものはここまで出来てしまうものだということがわかる。本書の題名はポジティヴなものであるが、これは著者の「こうであるべき筈だ」という思い込みの、強いられた「楽観」であろう。著者の伝えるガザにどのような希望がひとかけらでもあるのか、自分にはまったく理解できないし、すでに国際的な注目は IS を中心とする情勢にあって、世界はガザを忘れているように見える。これが人間の所業なのだ。
ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

ガザの空の下――それでも明日は来るし人は生きる

それにしても、日本とガザというのはあまりにも遠いようで、上記のような認識を目の当たりにしてみると、完全に同時代なのがよくわかる。ただ、ガザの方が先鋭的すぎるだけだ。我々もイスラエル人たちやガザの人々と何も変わらない。日本もまた「戦場」なのであり、ただそれは殆どの人たちには事実が見えていないだけのことだ。そのことは、例えば本書に唐突に挿入された「在日」の人たちのルポからも、推察できることであろう。
そういえばこの国でも、「ポケモンGO」をやりながら車を運転して、人を轢き殺す事件がついに発生しましたね。この幼稚くささが日本的形態であろうな。人を殺すというのは、何なのか。別に「ポケモンGO」、やったらいいとは思うけれど。もちろん、僕は日本の「平和」がすばらしいとは思っている。やはりガザとは比較にはならない。