未明起床。
外が暗い中、長時間ぼーっとする。
曇。
NHK ONE により「クラシック音楽館」で東京交響楽団の、12年間音楽監督を務めたジョナサン・ノットによる最後の定期演奏会の録音を聴く。曲は武満徹の「セレモニアル」(笙は宮田まゆみ)と、マーラーの交響曲第九番。
ジョナサン・ノット(1962-、現在63歳)はイギリスの指揮者で、わたしはたぶん初めて聴く。わたしごときに特にいえることはないのだが、とにかくすばらしい演奏会だった。これを聴いただけだが、いま、こんな才能のある指揮者がいるのだなと、そう思わされた。
いまを生きるマーラー。マーラーはあまりに演奏されすぎであり、マーラーを演奏することはいまや保守的、ほとんど惰性的行為に近くなっているが、これは「いまを生きるマーラー」だと感じた。ふつうシリアスに、全力で(?)演奏される曲だと思うが、ノットは冒頭から、あまり力みかえることなく、散歩でもしているかのように楽に進めていく。といって、決してダレることはなく、ただ、過度に緊張していないのだ。それだけで、マーラーの音楽は充分に聴かせる。これは全体的にそうだといっていいと思うが、やはり第三楽章の最終部からは、ギアを上げる感じもある。終楽章は、感動的でないこともない。ただ、本当に、どうなるかわからない、スリリングなところがずっとあった。終楽章は、のちの未完成の第十番の断章に、続いていく感じもあった。全体として、めずらしくもクリエイティブなマーラーであったと思う。
ノットへのインタビューをネットで読んだが、東京交響楽団を高く評価しているのだな。まあ、関係がうまくいっていなかったら12年間も続かなかっただろうから、当然ではあろうが、それはこの演奏会でもわかるように思った。ノットの包容力がとても大きいこともあろうが、東響はヨーロッパのオケとはまた(よい意味で)ちがう、独特の音がしていると思う。
それにしても、繰り返すが、こんな才能のある指揮者がいたのだな。63歳というのは、中堅なのか大家なのか、とにかく優れた指揮者の世界的に払底している現在、いまを確実に生きている、わずかな希望の光のひとつかと思った。無知にして、なにも知らないものであるな、わたしは。
スーパー。新しいクリームサンドクッキーを初めて買ってみる。
研ぎ屋さんが来たので、包丁をお願いする。880円、高いのか安いのか、ただ、結構途切れることなく頼む人が来る。ウチは年に二回くらいかなー、すぐに新しい包丁を買ってしまうのももったいないからね。
晴れて青空が見えてきた。

3.14 美濃加茂にて。
昼。
ひさしぶりにコメダ珈琲店各務原那加住吉店。コメダブレンド たっぷりサイズ620円。
エリック・ホブズボーム『破断の時代』(邦訳2015)を読み始める。第一部「『高級文化』窮状の今」第五章まで読んだ。
うーん、なんというか。第一部では(ヨーロッパ発の、というのはホブズボームには当たり前すぎて、一々断られていないが)様々な文化、特に「高級文化(ハイ・カルチャー)」の現状、つまり高度資本主義(という言葉は使われていないが)下におけるその「窮状」が考察されている。特にクラシック音楽の話が多いが、ホブズボームはじつに様々な「高級文化」に通じている、エスタブリッシュメントであることはいうまでもない。
というのを読んでいて、極東の片田舎で孤独にクラシック音楽を(サブスクリプション配信を通じて)安価に大量に聴いているわたしなどは、困惑するのである。いうまでもなくクラシック音楽は(他のハイ・カルチャーと同じく)、ホブズボームのいう「ヨーロッパ・ブルジョワ文明」の産物である。それはほんのひと握りの人間たちによって、世界における西洋文明の優位性を疑わない、極少数者のために作られたものであった。
ブルジョワ、というもの、つまり西洋の上流中産階級――その文明はほんの一部の人間の「エリート的な実力主義であった(今日でもなおそうである)。すなわち、平等主義的、民主的なものではなかったのである」(p.xi)。それは、「第一次世界大戦で崩れ去り、二度と回復することがなかった」(p.xi)。
わたしは正直、そういったことをまったく、なにひとつ考えることなく、いわばナイーブに、もう四十年近くクラシック音楽を聴いてきた。ホブズボームから、そうしたわたしのような文化的に無意味な「極東の片田舎の孤独なモブ」が、どのように見えていたのか(あるいは見えていなかったのか)、想像を絶する。そしてそのわたしのような存在の「意味のなさ」は、じつにわたしだけのことでなく、いま世界中に遍在しているのである。
そして、いわゆる大衆文化や、サブカルチャーの誕生。これは極少数のブルジョワではなく、広大な裾野をもつ、資本主義の歴史的展開(通俗的に「商業主義」といってもいいだろう)と関係がある。現代において、資本主義的コンテンツ消費は、資本による「欲望の商品化」のコントロール下にある。ここにはもはや、高級文化と大衆文化の区別がまったくない。そして、その「資本」をもつ者こそ、かつてのブルジョワと地続きなのだ。
いや、話を広げすぎた、そんなことはいいのだ。
おもしろいのは、ホブズボーム最晩年の本、というか遺著である本書では、ホブズボームが既に多くグーグル検索以降の世界にいることである。これは、刺激的だ。二十世紀を丸々生きた大知識人に、サイバースペースはどう見えていたか。それだけでも、本書を読むための推進力となるであろう。
夜。
『プリンセスコネクト! Re:Dive』第5話まで観る。前にも書いたとおり、すばらしく美しい作画、魅力あるかわいいキャラたち。イノセントで、観ているだけで浄化されそうだな。