未明起床。曇。
昨日は自分ごときとしては、むずかしいことを考えすぎたと思う。現在の「知」ということを考えると、状況は絶望的なのではあるが、そんなのはなるようにしかならないし、所詮、我々庶民には、「知」の状況など、(表面的には)あまり関係がないというか、どうでもいいことであるのもまたそうだ。我々の生活は、とにかく日々上機嫌に過ごして、おまんまが食っていけて、多少の気晴らしがある、そんなものでいいのである。自分の、日々の生活、それが何よりも大事なのだ。
もちろん、じつはその我々庶民の「日々の生活」は、我々の手をずっと離れたところで、現在の「知」の状況に知らず知らず、決定されているところが大きい。それを、どう考えたらよいのか。正直、「知」の状況と「健全な日々の生活」の関係をどう捉えていったらよいのか、わたしなんかにはよくわからないのだ。
敢ていえば、「健全な日々の生活」は失われつつあるし、知的状況は幼稚で低レヴェルすぎるような、気もする。わたしたちは本当に「生きて」いるのか、そんなことを思うこともよくある。ゾンビなんじゃないのか。わたしたちの頭は、生(や死)から遠く離れた言葉で、いっぱいになっている。生きていくための「精神的な土台」が、壊れているというか。
はは、もうこんな考え自体、むずかしすぎるか。
30分あまり、小屋の北の紅梅の木の下の草を抜く。百日草がはびこってしまって、入ることすらできない。鎌を片手に引っこ抜く、引っかかったら、鎌で切断するのが便利。蔓性のやつが厄介だな。
まだ細かいところはできていない、これは明日以降だな。わたしのことだから、もちろんテキトーでいいかげんなのだが、いつもの、やらないよりは遥かにマシってやつ。
盛夏の頃よりはずっと涼しくなったと思ったが、下着は汗でグショグショだ。冷水シャワーを浴びていたら、なにか鳥が、ピピピピピと鋭く鳴く。

ブーゲンビリア、昨日撮ったもの。
昼。
(イスラエル軍がガザ市を制圧するため、大規模侵攻を開始した。一方で国連は、イスラエルがガザにおいてジェノサイドを行っていると認定。
わたしが思うのは、このジェノサイドにおいて、アメリカは「共犯」である、ということである。今回のガザ市侵攻においても、アメリカはそれを諌めるどころか、ルビオ国務長官がイスラエルを訪問して侵攻のお墨付きを与える始末。アメリカの支持ゆえに、国際社会はジェノサイドを、どうしようもない。アメリカの、倫理的、道義的責任は免れないように、思える。
わたしがまた思うのは、日本の態度である。日本がアメリカにべったりなのは経済的、軍事的国益のためであろうが、このままアメリカを消極的にせよ支持することは、たとえ消極的にせよ、ジェノサイドを容認することであるのはいうまでもない。正直、イスラエルのやっているのは、人間のするようなことではなく、アメリカはそれを平然と公認している。日本がイスラエルに対して批判的になるのは、国益に反するかも知れないが、それが人間的な態度、というべきではないのか。
もちろん、このような考えは、感情的なものであり、理性的とはいえないかも知れない。しかし、これまで報道をそれなりに見てきて、このジェノサイドの非人間性が、ちょっと堪えきれない感じがする。皆さんは、こんなこと(=ジェノサイド)は、遠い国の、大したことのない、どうでもいい、しかたのないこと、と思われるであろうか?
ちなみに、偽善的なヨーロッパ諸国もさすがに、少しずつイスラエルとアメリカから距離を取り始めていることを、付記しておこう。あれは、あまりにもまともでない。)

アレチヌスビトハギ、9.10 に撮ったもの。
珈琲工房ひぐち北一色店。
図書館から借りてきた、藤原辰史(ふじはら・たつし)さんの『歴史の屑拾い』(2022)読了。とてもよい書物であることは、前に書いた。エッセイ集ということになるんだが――優れた歴史家の柔軟な思索が、思慮深くリーダブルな筆で展開されている。感動的ですらある。丸谷才一は、こういう書物を「学海余滴」、なんていってなかったか(よく覚えていないが)。
わたしは歴史というものをかなり素朴に考えていて、本書を読んでいてその浅さがよくわかった。わたしは、「科学としての歴史」というのを、あまり信じていなかったのだが。
優れた本を読むと、わたしの考えるのは自分のことばっかりだ。わたしの頭の働きは粗雑で、もし学者にでもまちがってなっていたら、碌なそれにはなれなかったろう。いや、結局、こんな雑な頭では、いまわたしのやっている(とかんちがいしている)ことも、ほぼ意味がないのは当然、だと思う。孤独な田舎者が孤立して本を読んで考えて(いるような気になって)、だからいったいなんなのだ、と。
いずれにせよ、藤原さんの本はもっと読もう。本書で言及されている本にも、興味深いものがたくさんあった。
