こともなし

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLCD

寝た寝た、すごく寝た。気分すっきり。


暑い。車外は33, 34℃というのだから暑い筈である。
珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒーチケット購入。長谷川四郎さんの『長い長い板塀』というエッセイ集を読む。長谷川四郎さんはブログ「本はねころんで」さんのところで教えて頂いた作家であるが、静かでそこはかとない笑いがあって(「ユーモア」という語が使われることがあるが、わたしはこの語があまり好きではない。いまは何でも「ユーモア」だから)、わたしの肌に合う人である。ネット時代だったら長谷川さんならどうふるまわれただろうとか少し思ってしまうが、長谷川さんならそんなことはあまり思い煩われることなく、ここでも静かに未来を見つめて仕事をされていたであろう気もする。
 なお、どうでもよいことだが、この本は地元の図書館の書庫に眠って(?)いたもので、中のヤケが激しい。わたしが10歳のときに旧図書館に入ったものらしく、もう何年前のことだろうといいたくなる。いまの市民公園の新しい図書館ではなく、昔のふるい図書館であるが、思い出すだになつかしい。戦後のコンクリート製の古くさい建物で、一階に職安があったのを何故か覚えている。あと、休日診療所。わたしの昭和の記憶のひとつだ、あの図書館は。


いまふと思い出したのだが、よくファストフード店などで「新発売の〇〇バーガーはいかがですか」とか、「お飲み物はいかがですか」って訊かれることがありますよね。そういうのを断るとき、わたしは「それはいいです」なんて言っていて、まあこれはこれで曖昧な言い方で「いいです」って要るのか要らないのかという感じだが、ふつうは要らないってわかってもらえる。とそういう仕方で断っていたのだが、最近、若い人たちが同じ目的で「だいじょうぶです」っていうのを何回か聞いて、ははあなるほどーと思ってしまった。これも要るのか要らないのかという感じだが、何となく要らないってわかる。これ、誰が思いついたのだろうなあ。たぶんどこかの高校生か何かの「無名詩人」だろうが、上手いこというものだ。わたしも使ってやろうかなと思わないでもなかったのだが、やはりちょっと抵抗感があっていまだ使うに至っていない。わたしはようやく最近になって気づいたことだが、たぶんもっと前から普及しているのでしょうね。

日本語むずかしすぎるな。

野呂邦暢の連作エッセイ「小さな町にて」を読み終えた。野呂の青春時代が順を追って描かれ、最後は自分の中に作家が存在していることに気づくところで終っている。ウソは書いていないと思うが、不慮の死の少し前の時点における過去の再構成という意味で、フィクションであるといえよう。文学青年から作家の誕生を描いたという点で、それほどめずらしい試みとも思えないし、一種のハードボイルド作家であるとわたしが思っていた野呂にしては意外な作であると感じたが、まあ「珠玉」といわれる所以はわかった。わたしも「青春時代」に膨大な量の文学・哲学・科学書を読み(ついでにマンガだって読んだが)、音楽を聴いた人間として自分のことを思わないでもなかったが、それにしても自分と野呂のちがいを思い知らされざるを得なかった。わたしに野呂の才能がなかったとか、まあそれは事実だろうが、そんなことではない。わたしは文学青年でも哲学青年でも科学者の卵でもなく、野呂の時代にはあった「青臭い議論」を戦わせるだけの蓄積をもった人間がまわりにほとんどいなかった。時代はバブル期であり、エリート予備軍である知人たちの読書量も読解力もお話にならなかった。師となるべき人間を、まわりに探し当てることもできなかった。わたしが野呂の青春に恥ずかしさを感じずにはいられなかったのは、まことに残念なことにわたしにそのような恥ずかしい体験が少なかったからである。わたしは自分のやっていることがムダなことであるというのは、それはもうひしひしと感じていたので、それこそ若さの無謀がなければ敢てすることすらできなかっただろう。そして、それは素直にいまに繋がっている。(AM00:54)

ここに書いたわたしの個人的なこともまた、過去の再構成にすぎない。文章というのは否(いや)も応もなくリニアで限定的なものであり、出来事の全体像を一気に提示するわけにはいかない。というか、「出来事の全体像」など、果たして存在するのか? 大岡昇平はあの緻密な『レイテ戦記』について「小説家の夢」と書いたように記憶しているが、それはまさに大岡昇平の徹底して考察したところの問題群の一であろう。