スティヴンスン『旅は驢馬をつれて』

晴。もう春だな。
昨晩は Ruby + Capybara + Poltergeist で夜更し。こんなことばかりやっていて、困ったものだ。
米屋。JR岐阜駅に寄って「18切符」を買ってくる。駐車場に入るとき、タクシーがめちゃめちゃ乱暴な運転でむかつく。タクシーとトラブると厄介なのでかなわん(僕の友人はかつてひどい目にあった)。「個人」を諦めた奴は平気で事故るので気をつけないと。
モスバーガーのドライブスルーで昼食。

夜、仕事。
図書館から借りてきた、スティヴンスン『旅は驢馬をつれて』読了。小沼丹訳。有名な翻訳で、みすずの「大人の本棚」版である。僕はスティーブンソンはよく知らないのだが、どことなく惹かれるものがある。まあ、スティーブンソンというと、中島敦の『光と風と夢』を真っ先に思い出す人間だが。あれはよかったので、いつか読み返すことがあるだろうか。集英社文庫ヘリテージにもスティーブンソンは入っているのですか。誰の選択か知らないが、シブいな。表題作はおもしろいのか何なのか、確かに小沼丹の名訳であるが、退屈な気もするという自分は俗物だ。併録されている「ギタア異聞」みたいな通俗作は大好きなのだが。しかし表題作だが、呑気な話に宗教戦争の歴史が混ざっているのは、ちょっと変っている。不思議な融合であると思う。

旅は驢馬をつれて (大人の本棚)

旅は驢馬をつれて (大人の本棚)


ブログ「本はねころんで」を読んでいて、そのリンク先のあるブログをさらに読んだら、田中克彦開高健の『夏の闇』を酷評していることを知った。僕は田中克彦はよく知らないし、特に興味も(いまのところ)ない。そして、彼が開高健を酷評しようがまるで構わないが、それにしても『夏の闇』を酷評する人がいるとは驚いた。まあ文学など好きに読めばいいし、自分も文学音痴を自覚しているが、『夏の闇』はすばらしい小説だと思う。田中によれば『夏の闇』は「商品カタログまがいの、通俗知識の見せびらかし」だそうだが、どこをどう読めばそうなるのか、ちょっと笑ってしまうほどだ。これで自分はむしろ田中克彦という人が、自伝まで書く人らしいが、気になってきたくらいである。この酷評が田中という人をかなり深く表現しているような気がする。まあ田中克彦はいいので、開高健だが、自分にはこれぞ男という感じがする人で、青春時代に読み尽くして、深く影響されたと思っている。前にも書いたが、開高健松田優作山下達郎の三人は、自分には特別の男たちであった。開高は豪快なイメージのあった人だが、本質的には非常に繊細な人だった。大読書家でもあり、書斎の人であったがゆえに、遠心的に戦争や自然を求めて歩いた。すばらしく掘削力のある(司馬遼太郎の評である)文体をもっていたが、それは蓮實重彦がバカにしてみせた、自動的に産出される美文であったとは自分は思わない。和漢洋の伝統から苦心して生み出した、新しい日本語だったと思っている。しかし、その後継者は誰もいないだろう。これも司馬遼太郎の言ったとおり、これほどの文体で描き出すに値するものが、既に現代にはないのである。さて、いまや開高健はどれほど読まれているのか。大声で語る人はいないが、密かに読み継がれていると信じたいものである。ただ、読み応えのある開高健論というものを読んだことがないのは確かだ。例えば中上健次大江健三郎はあれほど語られるのに。まあしかし、自分にも書けるわけではないしな。