小玉武『評伝 開高健』

曇。雪ちらつく。

スーパー。

Ruby 遊び。Ruby 2.7 のパターンマッチを弄ってみる。

夜、雪。
小玉武『評伝 開高健』の続き。おもしろい。いま脳みそがうまく働いていないので書けないが、本書そのものが豊かだ。わたしが若い頃開高に惹かれたのはその「豊かさ」にだったが、さてそれはうまく説明できないものである。文学といってもいいし、人生といってもよいが、結局わたしはいまにおいても貧しいなと痛感せざるを得ない。それは、わたし個人の貧しさであるだけでなく、時代に与えられたものでもある。もちろん、だからわたしは時代を超えられなかったといってもよいわけだが。へんな話、この貧しい貧しいって芸もなく繰り返しているのがそもそも貧しいよね(笑)。いまや管見の限り、本を読んでも、テレビを見ても、ネットを見ても貧しい。わたしはリアルの生活で家族以外の人間とほとんど接しないのだが、リアルには豊かな人がたくさんいるのかも知れない。それは措いても、本書は豊かだ。文学だ。なつかしい、文学。
 本書は、ベトナム戦争を過ぎ、開高生涯の傑作『夏の闇』についてまで読んだ。著者はこの小説についても丹念に読み込み、『夏の闇』に関して避けて通るわけにいかない、ヒロインのモデル問題にも言及している。わたしはモデル問題にはあまり興味がないのだが、著者の見解は、ヒロインのモデルはひとりの女性ではないのではないかというものだ。『夏の闇』の舞台はパリ(と推定される都市)とベルリンだが、現実に開高が接していた女性はそれぞれの都市でちがうという説である。さらには、妻の牧洋子の像まで投影されているという。さて、どういうものであろうか。繰り返すが、わたしにはあまり興味はない。
 江藤淳が『夏の闇』をほぼ絶賛しているというのは知らなかった。あの気むづかしい江藤淳が。また、『ベトナム戦記』に対する吉本さんの酷評についても言及があり、著者はその20年後の吉本さんに話を訊いていて、わたしには頷かれるところがあった。わたしは吉本さんの「酷評」はあまり当たっていないと思うのであるが、あれはどちらかというと吉本さんの方の事情らしい。吉本さんと開高とは気質がまったくちがうわけであるが、吉本さんは開高を文学者として評価していたようでそれはほとんど意外だった。江藤淳の絶賛も意外である。吉本さんも江藤淳小林秀雄のフレームの中の文学者といえるだろう、開高からはひどく遠い筈なのに。
 本書は開高の「鬱」について当然のことのように再三言及しているが、開高の愛読者にもまたそれは当然のことであろう。鬱というものはあまりにも繊細敏感なアンテナというべきで、開高の豊かな才能と一体化していた。鬱は部屋に閉じ籠もっていられない。開高が「行動派」「アウトドア派」と見做されてきたのは、それゆえであるとわたしは思っている。

 
小玉武『評伝 開高健』読了。著者はサントリー宣伝部で開高と親しく接した人である。本書で気付かれるのは、谷沢永一について思ったほど言及がないことだ。「牧洋子悪妻説」は特に谷沢が広めたものだが、それについてはやんわりと異議申し立てがしてある。谷沢の『回想 開高健』も、鵜呑みにはされていないようである。
 開高はわたしの青春の読書だったので、本書を読んで個人的な感慨があった。開高の本に初めて出会ったときのことは、わたしにはめずらしくよく覚えている。わたしは名古屋に一年間下宿していたことがあるが、それは下宿の一駅向こうの、当時はまだたくさんあった町の小さな本屋でのことだった。角川文庫で、『白いページ』というタイトルにちょっと興味が惹かれたのだった。開高はよく「活字がむくむくと立ち上がってくる」という表現を使うが、文庫本を棚から抜いてページを開いたところ、まさにそういう体験をした。購入し一読したとき、ベトナム戦争のジャングルで九死に一生を得た話を読んで、それがひどく印象的だったのを覚えている。30年前、バブル期においてのことだった。
 開高が死んだときのことも覚えている。『白いページ』と出会った翌年、わたしは京都で下宿生活を始めていたが、野暮用があって名古屋に出かけたことがあった。そのとき知人の下宿に泊めてもらったのだが、夜、テレビのニュースで開高の死が流れたのである。そのときまでには既にだいぶ開高の本を読んでいた筈である。そうそう、その後京都河原町の大きな書店で、遺作の『珠玉』を見かけたこともあったっけ。その書店もいまはないらしい。