『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』

日曜日。晴。
柄谷行人のおかげというべきか、睡眠の後始末が大変だった。ほぼ午前中いっぱいかかってしまった。睡眠というのは自分でコントロールできるものではないから、厄介である。で、興味深い夢を見た。最近の興味深い夢は、バスが出てくることが少なくない。場所は自宅付近、あと岐阜駅付近だ。時代的には現在ではなく、少しノスタルジックな感じがする。現実が背景だけれども、あり得ない場所だ。セピア色のモノクローム。バスか。わかる気もする。トトロの猫バスというのもあったな。
東京でしかおもしろいことは起こらないか。必ずしもそんなことはない気がする。ただ、それが東京の人におもしろく思われないだけだろう。しかし、「地方復権」とかはバカバカしいと思う。それは「東京化」の別名で、どうでもいい。地方にも人は住んでいる。ただそれだけだ。

昼から仕事。
http://d.hatena.ne.jp/obelisk2+marginalia/20170122/1485083696
無意識を刺激する。
いつもとはちがう角を曲がるだけで、そこに異空間がある。

柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』読了。これは自分にとって偶然大きなきっかけになる本となった。まあそれは個人的なことなので、いい。僕は柄谷行人はこれまでかなりよく読んできたと思う。少なくとも文庫や新書のエディションで入手できるものはほぼすべて読んだ筈だ。近年の、まだ文庫化されていないものはめずらしくも単行本で入手している。そこで、近年の世界史を扱ったものは、柄谷行人にしてはあまりにも単純平明で、どうも違和感が拭えなかった。こういう言い方はおかしいかも知れないが、これでは高校生にも読めてしまうとでもいうか。また、巷では、柄谷行人の非アカデミズム性が問題とされるようになってきた。柄谷の言っていることは、まず事実として学問的にまちがっており、信用するに足りないという見方である。確かに、柄谷の文章は、厳密に証明するのはむずかしい類の断定で満ち満ちている。それが若い人たちに(たぶん)バカにされ出したのだ。
 本書では、柄谷自身が、己はもともと文芸評論家であったが、次第に文学から足を洗い、いまでは哲学的な仕事をするようになったと述べている。それはそうであろう。しかしまた柄谷は、自分は特に昔と別の仕事をしているわけではないとも、述べているのだ。自分が今回読んで気づいたのは、柄谷は文学で自己を形成したということである。というか、柄谷を掘り進んでいたら、文学にぶち当たったのだ。僕はこのところ近代文学から遠ざかっていたのだが、またぼちぼち読み始めるかもしれない。それから、柄谷行人は、哲学では(もちろんすごいのだが)かなり「無理」をしているけれども、文学では自由に息をしているように見える。ただ、柄谷の例えばカントに対するリスペクトには、何故か感動的なものがある。僕もカントは大好きなので(好きなだけです。むずかしいです)、ちょっと感傷的な気分になってしまったことを告白しておく。まあ、そんなことはどうでもよいので、やっぱり柄谷行人は凄くて、おもしろかったという話。正直言って、彼の言説が正しいかどうかなど、どうでもいいような気さえする。いや、これはごめんなさいとあやまっておきます。