『柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇』/川本三郎『そして、人生はつづく』

晴。
寝過ぎ。

バッハの協奏曲 BWV974 で、ピアノはマリアム・バタシヴィリ。曲はマルチェッロのオーボエ協奏曲をバッハが鍵盤楽器のために編曲したもの。聴けばわかるとおり、ポピュラー曲ともいうべき甘い曲で、バッハはたぶん気に入って自分で弾きたかったので編曲したような気がする。多くの人がそうであろうと思うが僕も元々はグールドの録音で知ったもので、グールドの演奏はじつに美しいものだった。ここでの演奏も弱音が中心でなかなかいい。ところでこのピアニストは女性ですよね。整った顔立ちなので、スーツを着ているとハンサムな男性のように見える。女性ピアニストはあのぴらぴらのドレスを着て演奏する人が多いが、スーツってのもなかなかいいのではないかな。ってどうでもいいことを書いた。曲に戻るが、原曲のマルチェッロもとてもいい曲ですよ。

というわけで、マルチェッロのオーボエ協奏曲ニ短調です。第二楽章など、恋愛映画の音楽みたい、というか、これを使った映画ってきっとある気がする。この演奏はオーボエ、ちょっと意識して一生懸命だけれど、まあ悪くない。いい曲ですね。

モーツァルトの弦楽五重奏曲第四番 K.516 で、演奏はエマーソンSQ+キム・カシュカシャン。うーん、これはすばらしい。昨日に引き続きエマーソンSQ+カシュカシャンのモーツァルトだが、動画で上っているのはこれだけですか。CD になっていないかなあ。弦楽五重奏曲全曲が聴きたいものである。ところでこの曲の第三楽章が自分にはむずかしいのですが。調性的にずっと宙ぶらりんな感じなのだが、残念なことに自分は音楽教育を受けておらず、自分の感じが的はずれなものかどうかを確認することすらできない。このあたりが自分の限界で、きちんと音楽を勉強しているひとはこのあたりがわかるのだろうなあと思う。終楽章の序奏も、明らかにその雰囲気を引きずっているように思われるのだが。

柄谷行人講演集成 1985-1988 言葉と悲劇』読了。先日も本書について書いたとおり(参照)、本書は大変におもしろかった。まあ先日書いたことを参照してもらえばよいのだが、色いろ考えたのでちょっと付け加えておく。たいぶ前にこのブログに書いたと思うのだが(参照)、柄谷行人は文学から出発した人であり、本書でもそのことを強く感じた。自分のことを書けば学生の頃から柄谷をよく読んできたものであるが、最初は「現代思想における日本のヘゲモン」として柄谷行人を読むという、まあ何も知らない田舎出の若者そのものであったと思う。柄谷が文学者であったことに気づいたのは、さほど前のことでない。柄谷の「形式化」というのは、「野蛮」に対する抵抗の手段というか、武器のようなものであり、それを受け継いだ東浩紀氏などの形式化とは随分ちがうものなのだ。東浩紀氏の形式化とは一種の「パズル解き」のようなものであり、それゆえ秀才に親和性が高い。柄谷行人を読んでいると、ドロドロとしたものとの格闘がまことにスリリングに感じられる。それが僕のいう柄谷の「形式化」なのである。本書からこれ以降、柄谷の形式化は次第に自己目的化されていき、それゆえに抽象的だがすっきりとわかりやすいものになった。僕は個人的に、文学者としての柄谷行人の方が好きであるが、時代はそのようになっていかなかった。そして、柄谷行人は学問的にまちがっているということになってきたようだ。
 しかし、それは以前も書いたことだが、事実として正しい云々のところだけで柄谷を評価してはいけないのではないか。確かに、柄谷はしばしば、学問的には証明できない一種の放言をなすことが少なくなく、それは緻密な実証によって否定されたり、そもそも証明不可能ということで問題視することができる。しかしそれは柄谷の不可避的な「発想」であり「文体」であって、それをなくせばすべてを殺してしまうのだ。本書の真ん中あたりの講演で、柄谷は「安易なデカルト批判」を批判しているが、確かに何ともめちゃくちゃなことも多く言っている。そもそも柄谷には何だかわからないインスピレーションがあって、それはまあ才能ある多くの人に共通することであるが、それにあまりにも引きずられて、めちゃくちゃなことを言う傾向がある。でも、その中に、誰も考えつかなかったすばらしい思考が発掘されるのを、我々読者は見出すのであり、それが柄谷行人の魅力なのだ。ここではデカルトは歴史上のその人ではなく、柄谷行人自身の投影である。そのようなものが現代のアカデミズムに評価される筈がないが、思想とはそもそもそういう(柄谷的な)ものなのである。そんな下らないものは要らない? いやいや、そんなことを言うのはまだ何もわかっていない証拠なのだ。でもまあ、殆どの人にはそんなことはどうでもいいことで、いまでは秀才もその「殆どの人」の中に入ったにすぎない。文学が死んだのも同じことである。皆んなインターネットを見るようになって、世の中にはバカしかいないように見えることに安心したわけだ。まあそんなことはいまさら言っても仕方のないことである。
 それにしても、正直言って柄谷行人を読みながら何だか悲しくなってくるような事態に至るとは、まったく意外なことである。このような悲しみは、吉本さんや中沢さんを読んでいるときはいまでもまったく感じないことだ。吉本さんや中沢さんは、たとえ読まれなくなったところで、日本語がつづく限りは読む価値がなくならないことは確信されている。僕は柄谷行人を読んでいると反論したくなってきて猛烈に考えるのだが、こういう対象がホントに少なくなった。例えば東浩紀さんなどは、正直言ってただどうでもいい感じで、すごいですね秀才ですねくらいしか言う言葉がないのだが。まあ東さんはいいので、かつての柄谷行人をきっと読み返してみようと思っている。

しかし思うのだが、文学とは(それに思想とは)特に「役に立つ」ようなものではないし、またむしろ役に立たない方がいいようなものなのだが、どうしてそんなものが大切なのか。ここでいう「文学」は、(自分はよく知らないのだが)パンクロックのようなものも含めてよいであろう。こういうものに親和するのは、本来少数者の筈である。そして本質的にはインサイダーのものではあるまい。本物の文学(それは確かに存在する)は危険なものであり、おだやかな人生を破壊しかねないものである。それは、自由というものが稀少であることに繋がっているような気がする。

図書館から借りてきた、川本三郎『そして、人生はつづく』読了。なかなかよかった。自分は以前から川本さんが苦手なので、修行になる。文章も平明で悪くない(エラそうだな)。まだ読んでいない著書が図書館にある筈なので、もう少し読んでみるつもりだ。それにしても、東京人というのは自分には異国の人と変わらない。いまひとつ同国人だとは思えない。
そして、人生はつづく

そして、人生はつづく