松山洋平『イスラーム思想を読みとく』 / クロード・レヴィ=ストロース『やきもち焼きの土器つくり』

晴。
昨晩は本を読んでいたらそのまま寝てしまった。で、12時間くらい寝た(汗)。さすがに寝過ぎどころではないが、寝ようと思えばもっと寝られるのだよね…。
睡眠の後始末も大変。
しかし、自分の脳みそちゃんは何がしたいのだ…。


バッハのフランス組曲第三番 BWV814 で、ピアノはマレイ・ペライア

日本。長髪とフォークの思想 (内田樹の研究室)
内田樹が仏「リベラシオン」の記事を翻訳している。中身は非常に興味深いもので、ヨーロッパの You Tube 視聴者たちが日本の 60~90年代のポップスを発見して驚いているというもの。この時期、日本のポップスは誰も知らないまま世界のポールポジションにあり、その頂点が「はっぴいえんど」だった(というのは元記事をちょっとまとめすぎかも知れないが)という論旨で、我々からすると何とも感動的という他ない。そして、そのコンピレーション・アルバムがついにヨーロッパで企画・発売されたというのである。内田樹も書いているが、もしこのことを故・大瀧詠一が知ったら、どういう反応したか、ちょっと想像してみたくもなるというものだ。内田のいうとおり、大笑いしたのではないかと僕も思う。もちろんこのことはわかっている人にはわかっていたことだが、ついにヨーロッパにおいてもこういう動きがでてきたというのは、さすがに真実はいつまでも隠して(?)おけるものではないというか。さてしかし、現在の状況はどうなのかと問うてみれば、なかなかむずかしいところにあるとは思うが。ここでもまた、recession が見られるとしか言えないと思われる。まあポピュラー音楽自体が(そして、クラシック音楽、つまり現代音楽も)、世界的に限界点にぶちあたっているようにも見えるけれども、それは僕のようなよく音楽を知らない人間の言うべきことではあるまい。新しい動きは、必ずどこかにあるにちがいない。

しかし、細野晴臣が20世紀後半における世界最高の音楽家のひとりであったという事実がこれまで認識されてこなかったというのは、いかに耳のない人間が多いかということに他ならないわけだが…。いや、いまだってまったく認識されていないですけれどね。まあ、細野さん自身はそんな扱いはまっぴら御免というところでしょうから、それでよかったのかも知れないけれど。いけね、さっさと細野さんの新譜買わないとな。

音楽は世界の共通言語であるな。吉本さんや中沢さんがいつか海外で評価される日がくるとは、残念ながらまったく思えない。幸田露伴南方熊楠なぞ、日本ですらいまや誰も読んじゃいないくらいだからなあ。

松山洋平『イスラーム思想を読みとく』読了。若い学者による、とてもいい本だと思う。全体として言えるのは、説明が日本の現在の状況をふまえ、ポイントをとてもわかりやすく解説していることと、(これはもちろん印象であるが)大変に「公平」であるということである。この「公平」というのは少し説明が必要で、まず本書から我々が知るべきなのは、イスラームには例えばキリスト教における「教会」に相当するものがなく、すべてはクルアーンコーラン)を絶対真実として、「学者」たちによるその「解釈」があるだけである、ということだ。ゆえに、イスラーム公式の「正統的教義」というものはないわけで、様々な「解釈」があるにすぎないと言っていい。もちろんそれら「解釈」には歴史的経緯があって、大多数の学者が認めている「解釈」がほぼ「正統教義」に近いということになるが、絶対的なものではないのである。本書はその事実に忠実で、イスラーム内における様々な「解釈」に対し、それぞれ「公平」であろうとしているということである。本書の多くは、そのことに終始しているといってもいいのだ。
 であるからして、例えば IS のイスラーム「解釈」というのも、「正統教義」に対する「異端」というものではない。実際、IS のやり方を認めていないウラマー(学者)たちでも、IS の人間たちがムスリムであることには何の疑いももっていないのである。ただ、彼らにしてみたら「誤ったムスリム」というにすぎない。
 まあ本書の議論は要約できるようなものではなし、とにかくいい本なのでこの程度の本はきっと読んでおいた方がいいと思うのだが、それにしても本書を読んでみて、イスラームというのはじつに我々のキリスト教や仏教理解からしたら、きわめてわかりにくいものであるなあと思わされた。宗教に対する我々の「常識」みたいなものが、なかなかそのまま通用しないのである。とにかく本書で思い知らされたのは、ここまで書いてきたように、イスラームには「解釈」しかないということである。それでもこれまでは「解釈」はおおまかなところで一応安定してきたものが、爆発的にインターネットが普及したこの世界では、イスラーム世界において「解釈の爆発」のようなものが起きつつあるらしい。ゆえに、権威あるウラマーたちは、かかる「権威」をもたない者の「解釈」を制限しようとするのもまた当然であろう。IS などが厄介なのも、かかる「統制」がとれない構造にイスラームがなっているからである。例えばよくいわれる「ジハード」はどのイスラーム学者も認めるムスリムの義務であるが、その解釈は学者によって異なるのであり、必ずしも防衛的なジハードのみが「正しい」と言い切れるものではない。つまらぬことを書くが、これではあー困ったなあというのが自分の幼稚な感想である。イスラームに関しては、これからも世界が当分揉めることは必定だ。

それから、本書には一行の言及もないが、イスラームにあっては「政教分離」ということは決してあり得ない。というか、イスラームにあってはある意味「すべては宗教である」といえなくもないくらいだ。ここが、宗教的意識の希薄である日本人の多くにはわかりにくいところである。あと、これは本書において強調されていることだが、イスラーム法というのは神の定めた絶対的なものであり、あとはこれまたその「解釈」しかないわけで、これはどのようなイスラーム学者でも全員一致で認めているということ。これは非イスラーム世界の「法」の概念とは異質たらざるを得ない考え方である。

図書館から借りてきた、クロード・レヴィ=ストロース『やきもち焼きの土器つくり』読了。渡辺公三訳。膨大な『神話論理』を経て、晩年の著者が楽しみながら書いた著作ということである。いやしかし、レヴィ=ストロースを読んでいると自分の頭の悪さが残念になるね。もっとすらすらわかると楽しいだろうに。それはともかく、おもしろいという他ない。自分は中沢さんによるレヴィ=ストロース的実践を知っているので、ますますおもしろかった。本書はもちろんレヴィ=ストロースによる神話の構造分析、いや構造そのものの分析といってもいいだろうが、また隠れたモチーフとしてフロイト批判ということもあるだろう。ここでの「批判」というのは必ずしも「非難」ということではなく、レヴィ=ストロースはここで確かにフロイトに対して非常に辛辣であるけれども、自分などはこれによって却ってフロイトを読み直してみようかという気になったのである。現代においてフロイトはもはやまったくまともに読まれていないと言っていいだろうが、なるほど、神話的実践の一例として、やはりフロイトは大変な才能をもっていたというべきであろう。レヴィ=ストロースの批判は、却ってそのことを確信させてくれた。さて、次は何を読もうか。大著『神話論理』に挑戦するのには勇気が要るが…。

やきもち焼きの土器つくり

やきもち焼きの土器つくり