クロード・レヴィ=ストロース『大山猫の物語』

雨。
11時間くらい寝た。


モーツァルト交響曲第二十九番 K.201 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナーガーディナーいいな。


ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第十番 op.14-2 で、ピアノはダニエル・バレンボイム。このところのバレンボイムの不愉快さは何なのだろうな。聴いていて不愉快でしようがない。何か大地から切り離されている感じがする。


ブラームス交響曲第四番 op.98 他で、指揮は小澤征爾ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団小澤征爾を聴いていると、まだまだ未知のものがあるなという思いを深くする。音楽をわかりつくすということのない感じ。ブラームスのよく知った筈のこの曲が、こんな風に聴かれるとは。また、冒頭のベルクもすばらしくおもしろい。小澤のメシアンの録音とか、ないであろうかなどと思ってしまう。

いい天気になった。両親が「庭にコゲラがいるよ」というので見てみたら、確かに柿の木にいて、熱心につついている。幹の表皮の下にいる虫を食べているのである。かなり近づいても逃げない。めずらしいものを見たな。田舎である。

カルコス。今日は買いたいような本が結構あって豊作感。東さんらが中心となった討論会の記録『現代日本の批評』二冊本が出ていたので覗いてみる。索然。評者らがニセモノなのか現代がニセモノなのか、そのうち読むだろうが、いまから気が重い。「群像」4月号、表紙に中沢さんの名前がないので、今月は連載がないのかなと思ったら、ちゃんとあった。なるほど、中沢さんの名前を出しても売れないわけね。しかし、大変な連載になりつつある。まあ、ほとんどの人にはわかるまいし、興味もわかないだろうが、事件というのは知らないうちに起こっているものだ。

ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー。南嶌宏という人を読む。まったく知らない人で、美術評論家・キュレーターとあり、2016年に亡くなっているらしい。Wikipedia にも簡素ながら項目はある。いかにもキュレーターっぽい文章で、こういうのはきらいでない。しかし、自分は語るほど美術を見てきていない。美術(まあ「アート」でもよいが)は好きなのだが、怠惰な田舎者にはなかなか触れる機会が少なくていけない。むなしいいいわけだけれど。

ついでに草餅を三つ買ってきた。


 
崩壊しつつある日本の大学の悲鳴と怒りを聞け。


「森友問題」はついに自殺者まで出たか。ひどい国だな、この国は、とツイッターを見ていて思う。

これが現在の「良質な知識人」のツイートですよ(魚拓)。いかに朝日新聞はクソっていってもねー、どっちがクソなのだか。もうこんなのばかりで、世界にあまり興味がもてないのだが。時代おくれのおっさんたるわたくしはさっさとこの世から消え去るべき。

お互いのカス呼ばわりはもういいという感じ。どちらもカスなのだから。僕もカス。君もカス。みんなカス。

図書館から借りてきた、クロード・レヴィ=ストロース『大山猫の物語』読了。レヴィ=ストロースはじつに自分には手ごわい。この人は頭の大変に強い人で、デリダのようなたんなる鋭い知性の持ち主ではないのだ。その意味で「巨人」であり、似ている存在としてはフーコーかも知れないが、フーコーよりもはるかに複雑な人である。なかなかレヴィ=ストロースの真意を見抜くというのは容易でないのだ。例えば彼はどうしてこれほどの知性の持ち主でありながら、一見古くさそうで無意味な人類学という仕事に生涯を捧げたのか。そしてその達成は壮大な規模になったが、その仕事で本当は何をしたかったのか。いや、それは無意味な問いかも知れないが、レヴィ=ストロースは古くさくて読むに値しないという「常識」は少なくとも日本にあっては既に確立されたものである。実際、フーコーデリダドゥルーズあたりはいまでも盛んに若い人たちが読んでいるだろうが、レヴィ=ストロースの名を聞かなくなって久しい。人類学など、たんなる知的な遊び? 少なくとも自分にはそうは思われない。レヴィ=ストロースのやりたかったことのひとつは、人間の精神のある種のメカニズムを正確に知るということではなかったかと思う。それも「神話」というものを通して。僕が学生の頃はまだ「神話」というタームに刺激的なところがあったものだが、現在にあっては我々現代人も「未開人」たちと同様に、我々の「神話」を作り出し、それを生きているという常識が通用しなくなっているかのようだ。構造主義以前への退行である。いまや経済学や社会学は精緻極まりないものになったが、かの学者たちの土台は自分などが驚くほど単純でナイーブなものである。変な話だが、いまの若くかしこい学者たちは、どれもこれも人間としてきわめて幼稚なのだ。どうでもいいことだが、ツイッターなどを見ているとそう思わざるを得ない。いや、つまらないオチである。

大山猫の物語

大山猫の物語

人間の精神のもっている能力そのものは、10万年前と一切変わっていない。レヴィ=ストロースを読んでわかることのひとつは、それだ。このことは何度強調してもよい。古代人でも未開人でもいいが、彼らは彼らなりに「すべて」を知っていたのである。決してバカにできる存在ではないし、文明の与える「幻想」に煩わされていないだけ、我々より強い生を生きていた。そのことはまちがいがないと思っている。これはたんに、「昔の方がよかった」というような話ではない。昔もいまもある意味同じなのである。そこははっきりさせておきたい。