色々音楽を聴く/中村秀吉『パラドックス』

昨晩早く寝てしまったので、朝四時起き。
曇。
音楽を聴く。■マーラー交響曲第八番(インバル1986)。■ベートーヴェン:三重協奏曲op.56(オイストラフロストロポーヴィチリヒテルカラヤン)。リヒテルはサポートに徹している感じで、どうもおとなしい。
いきものがかりを聴いてみる。悪くないですね。「@miso soup」なんか、なかなかカッコいい。

ライフ アルバム

ライフ アルバム

武満徹を聴く。今まで武満の何を聴いていたのかという思い。オーケストラ曲も室内楽も、とても面白い。聴いてきて、生き返ったような気持ちになる。もっと武満のCDを買おう。
武満徹:カトレーン

武満徹:カトレーン

武満徹:ノヴェンバー・ステップス

武満徹:ノヴェンバー・ステップス

武満徹は二十世紀の作曲家の中でも、バルトークと共に、もっとも天才肌の作曲家の一人なのではないか。武満中毒になりそう。
 それにしても、午前中だけでだいぶ聴いたな。

中村秀吉『パラドックス』読了。いわゆる分析哲学の立場で書かれている。本書を読んで、ますます分析哲学は、自分の哲学でないことを再確認した。しかし、つまらないというわけではなく、色々考えさせられるという点では、無駄な読書ではなかった。
 例えば第二章の「同一性と普遍の問題」では、氾濫した後のナイル川を、どうしてナイル川と認められるか、というような問題意識で、分析哲学的に考えられているが、それを云うなら、いま目の前のナイル川と、一分後のナイル川が同一な理由だって、考えねばならぬだろう。自分は、人間には(相違性と共に)類似性を感知し、イメージの中に「イデア」を分節化する能力が、元々備わっているとしか云えないような気がする。これは、論理を超えていて、分析哲学の仕方では、いつまで経っても解決しないように思われるのだが。また第三章のように、現在、過去、未来を分析哲学的に考察するのも、袋小路に入りそうな気がする。自分は、(実存主義的に)過去も未来も、じつは現在なのだと考えたい。ここでもそうだが、分析哲学をやる人は、ベルクソンヘーゲル(などと併置すると馬鹿にされそうだが)に、目を通しておいた方が良くはないだろうか。
 個人的なことだが気になるのは、「イデア」(「イメージ」と言ってもよいかもしれない)と言語の関係である。こうした問題意識は、まったく流行らないことは承知しているけれども。
パラドックス―論理分析への招待― (講談社学術文庫)

パラドックス―論理分析への招待― (講談社学術文庫)