『須賀敦子全集 別巻』

日曜日。晴。
昨晩は寝る前にある集合の対称性を考えていて、これは群論かなと思ってひさしぶりに群論の教科書を読む。で、それをプログラミングするとしてやはり Haskell なのかなと見当をつけ、半群、モノイド、群ということでこりゃもう少し Haskell に没頭することになるかと。しかし Haskell はモノイドといい、ファンクターといい、数学しているなあ。
OCaml もいいらしいのだけれどね。このあたりはなかなかむずかしそうだな。

あるブログを読んでいて、優れた読書人の下には本が集まってくるものだなとつくづく思う。中沢さんも、本がやってくるんですよ、読みなさいって、と仰っていたな。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのフルート四重奏曲第一番 K.285 で、フルートは工藤重典(NML)。この曲が聴きたくなったわけだが、いい曲だな。哀しいくらいに美しくてかつ愉悦に満ちている。演奏もとてもよい。追記。アマゾンで見てみると工藤重典さんの CD はたくさん出ているのだな。納得。

モーツァルト:フルート四重奏曲全集

モーツァルト:フルート四重奏曲全集

■バッハのフルート・ソナタ ホ短調 BWV1034 で、フルートは福永吉宏、チェンバロ小林道夫NMLCD)。すばらしい。■ブラームス交響曲第二番 op.73 で、指揮はベルナルト・ハイティンクロンドン交響楽団NML)。終楽章に感動した阿呆ですよ。ブラームス交響曲は明らかに一、三よりも二、四の方が好きだな。それにしても、ブラームスほど反現代的な音楽家がいるだろうか。もっと聴かないとな。
Symphony 2/Double Concerto

Symphony 2/Double Concerto

 
午前中にドラッグストアとスーパーへ。ポイントをもとめて、貧乏人には莫大な額(笑)のまとめ買いをする。ホント、10円とかのレヴェルで安いところへ行くのだよね。庶民である。

NML で音楽を聴く。■ラヴェルのピアノ協奏曲ト長調で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン、指揮はピエール・ブーレーズクリーヴランド管弦楽団NML)。美しく繊細な演奏でクオリティは非常に高いが、ツィマーマンもブーレーズもせいぜい八割程度の力しか出してはいないだろう。別にそれが悪いというわけではなくて、それくらいで充分演奏できてしまうわけだが、何だかわからないけれど自分とはあまり合わなかった。第二楽章など、自分はもっと感傷的な音楽と思ってしまうのだが、それはこちらがいけないのかも知れない。終楽章など、これだとあっという間に終わる。このピアノ協奏曲、自分の偏愛する曲なのだけれど。

ラヴェル:ピアノ協奏曲、高雅にして感傷的なワルツ

ラヴェル:ピアノ協奏曲、高雅にして感傷的なワルツ

■ヴォルフの間奏曲、「イタリア風セレナード」で、演奏はアウリン四重奏団(NMLCD)。おもしろいのだよなあ。晦渋で暗い感じなのはもうしようがないと思う。ヴォルフは他人とうまくやっていけない人で、孤独だったらしい。音楽もそれはそういう感じで、でも僕はいいと思うのだが。ブラームスを見下していたというのだけれど。■ペンデレツキのヴァイオリン・ソナタ第二番で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター、ピアノはランバート・オルキス(NMLCD)。


文庫版須賀敦子全集別巻を読む。対談等を収録。三分の一ほどを読んだが、どうも仏頂面をして読んでいたようだ…。確かに自分は外国語もできないし、ヨーロッパに関する深い教養もない。文章ももちろん素人である。だから、須賀敦子さんの高級な文学はたぶんわからないのだろうが、何か納得できないのだな。嫉妬でもあろうか。どうも、須賀さんって、日本はダメで外にユートピアがあるというのとどうちがうのだろうという感じがある。本書を読むと特にそれが明瞭だ。まあ、実際に日本はダメで、例えば本書にもあるように、そのダメさの典型が小林秀雄なのでもあろう。かなしいことであるな、わたくしには。

結局、アジアというか、土着的日本(本書にも「浪花節」という言葉が出てくる)というものは否定すべきであると。そこに行きつくのだと思う。本書で意気投合しておられる池澤夏樹氏なども、そういう方であろうな。まあ、いまになってそれが実現されてよかったということなのであろう。

もちろん、須賀さんの文章がすばらしいというのはわかるのですけれどね。きれいな、水のような文章というのは確かにそうだ。しかし、自分は必ずしも文章のきれいさに価値を認めるとは限らない。

須賀敦子全集 別巻』読了。後半の文学の話はやはりおもしろかった。まあ言いたいことがないわけではないけれど、わたくしごときがつまらぬことをさらに言うのはやめておこう。読んでいない本も多いことだし。

 

野呂邦暢の随筆(「エッセイ」と書いてもよいが、本には「随筆」とあるので)をみすず書房がまとめたものを読む。野呂の文章を褒める人は多いけれど、自分もやはりすばらしいと思う。彼の文章に影響を受けている人も少なくないが、それも当然であろう。静かで力強い。「土地の精霊」(まさしく genius loci)のようなものを感じずには書けないという野呂だが、確かにそのようなものが彼の文章には沁みわたっているのを覚える。

須賀さんはデラシネたることを必須と言っておられたが(p.306)、野呂邦暢の意見はそれと正反対である。