清水高志『空海論/仏教論』 / 『ジョン・ケージ 作曲家の告白』

時雨れる。
 
昼。晴れたり曇ったり。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。大人のポン・デ・ショコラ 芳醇カカオ+ブレンドコーヒー517円。
 図書館から借りてきた、清水高志空海論/仏教論』(2023)読了。こういう秀才たちは、どうして言葉と論理だけで世界がわかると思うのかな。もっと世界をよくご覧にならなくては…。心なら、その心という「対象」をよく見ないと、言葉と論理だけでは何もわからない。確かに、心という「対象を見る」のもその心なわけだが、それは古来よく理解されていたことで、ただ秀才はそれを「神秘主義」の一言で片付けてしまう。例えば著者(ら)は井筒俊彦先生を、「『真如』を究極の原因として、そこからの流出」の説としてほとんどバカにしているが、確かにそういえないこともない。究極の原因などない、という論理によって。しかし井筒先生のそれは、まあそういえばそうとでもいえる、という、結局は「方便」であるということが、まったく理解されていないのだ。ま、秀才が言葉と論理を振り回すのは、昔からのことである。ハイデガーのいう、「存在忘却」(リアルの欠如)に陥ってはならない。もう一度素朴にいおう、バカになって、もっと世界をよくご覧にならなくては…。

著者には言語批判がない。陽に言語が批判されていなくても、仏教の底に言語批判があることが忘れられてはならない。井筒先生のいうコトバは、そのまま言語に対応するわけではない。言語の恣意性。言語はどうとでも使えてしまうがゆえに、それだからこそ、大切に使われねばならないのである。仏教の「方便」とは、そのことである。秀才は自在に言葉(概念)と論理を操れるがゆえに、「存在忘却」のワナに簡単にハマってしまう。概念の建築をいったん徹底的に解体すること。
 っていう、バカのいつものひとりごと。
 
 
岩波文庫版『永瀬清子詩集』(2023)の続きを読む。永瀬清子(1906-1995)。いま読めば、昔の人の、古くさい人生だ。でも、古くさい人は古くさい人で真摯に生きたのであり、その実感を掘削力のある優れた詩に定着してわたしを感動させる。人が生きるということは、どんな時代だってそんなに変わらない。仕事も恋も家族も死別も異なるようで、まあつまるところ、おんなじようなものだ。でもいまは、そういう詩はあまり書かれないし、あまり読まれない。ここにあるのは、めったにない、よい詩ですよ。ま、あなたごときにはたぶん、わからないですけどね。ってのは冗談。
 

 
夜。
わたしは真理としては(仏教的)唯心論を考えているが、元物理学徒として科学的実在論に深く影響を受けているし、日常生活では素朴実在論の中で生きている。その矛盾、なんてむずかしいことを風呂で思索していたら、いちど体を洗ってボディソープの泡を流し落として、ぼーっとしてもういちどボディソープで体を洗ってしまった。アホである。
 
図書館から借りてきた、『ジョン・ケージ 作曲家の告白』(邦訳2019)読了。いまさらいうまでもないが、ケージ、めっちゃラディカルだな。和声を毛嫌いするケージ。名声とかお金に頓着しないケージ。わたしはケージに共感するところがたくさんあるが、ベートーヴェンなんぞを好んで聴いている因習保持的なわたしを、何からも自由なケージは恐らく好いてくれなかっただろうな。