『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』

曇。
昨晩はエヴァンゲリオンヱヴァンゲリヲン)の「新劇場版:Q」を見て、大変にしんどい思いをした。正直言って眠れるかという感じだったのだが、輾転反側するうち何とかある程度解体して知らぬ間に寝ていたようだったのでよかった。これでせっかくエヴァの既出の分をすべて見たことになるのだからあとで何か書こうかとも思う。(AM09:06)

スーパー。
図書館。午前中は人が多いのだな。

昼からごろごろ。


図書館から借りてきた、『村上春樹河合隼雄に会いにいく』(再)読了。1995年の対談集。ここからもう四半世紀も経っているが、河合先生の仰るとおり、やはりひとつの社会の深層というものは非常にゆっくりとしか変わらない。なので、いまでも基本的に通用する内容になっている。また、ここで対談している二人が共にとても深いところへの通路をもっているので、それもあるだろう。わたしは村上春樹の小説は、アンチではないがさほど好きでもないけれど、やはりもっと読まないといけないのかなと本書を読みながら思っていた。河合先生があとがきで、「(日本は)今までは欧米文化の上澄みを上手にすくって取り入れていたが、とうとう根っこのところでぶつからねばならないときが来ている」(p.196)と仰っているが、これはわたしがいままさに日々痛感しているところだ。根っこのところでぶつかって、我々は今までの日本が非論理的で非効率的な、ひどく古くさいもののように思われるようになった。わたしには、日本の特にかしこい人たちの「全面降伏」と「(愚かな)民衆どもへの苛立ち」が認められている。アニメとかが自分にとってこれまでとはまったくちがった相貌を見せてきたというのも、同じところに関係している。それから、もうひとつ印象的だった河合先生の言葉。「物語というのはいろいろな意味で結ぶ力を持っているんですね」(p.119)。とすると、いまの物語の大洪水、大氾濫は何なのか。どうしてこう至るところに物語があって、世界に充填されているのか。それらは何と何を結んでいるのか。どうして現実よりも物語の方が大きくなってしまっているのか。

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

村上春樹、河合隼雄に会いにいく

昨日見たエヴァの「新劇場版:Q」がなぜあんなにしんどかったのか。おっさんの「アニメ、刺激が強すぎる問題」は、既にだいたいは解体されていたと思う。ただあれは、きわめて幼稚な世界観に隅々まで満たされた、いわゆる「人間らしさ」のようなものがほとんどない、暴力とディスコミュニケーションの荒涼とした世界だった。結局、なさけなさの極みの主人公・シンジ君が、いちばん「人間的」っぽかったような気がする。彼だけが、過去のまだ「あたたかい、人間らしい」世界に逃避していたがゆえに。

早寝。