水島治郎『ポピュリズムとは何か』

曇。
寝た寝た、10時間くらい寝た。へんな夢もいっぱい見た。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第二番 BWV826 で、ピアノはシェン・ユエン(NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第七番 op.92 で、指揮はルネ・レイボヴィッツ、ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団NML)。1961年の録音。何というふつうのベートーヴェン。ロイヤル・フィルも特に大したことはないが、それでもわたしが求めているのはこういう演奏なのである。すばらしかった。わかっているなという感じ。

Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 4

Beethoven: The Nine Symphonies, Vol. 4

僕はレイボヴィッツという指揮者は初めて聴くが、もともと現代音楽の人なのだな。作曲家でもあって、ブーレーズやヘンツェなんかがその弟子であるという。十二音技法の本を書いていて、各国への影響は大きく、日本の十二音技法もここから始まったらしい。へえ。■ストラヴィンスキーバレエ音楽火の鳥」で、指揮はエサ=ペッカ・サロネン、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。

シューベルトの「春のおもい」 D686、「白鳥の歌」 D957 ~ 第十四曲「鳩の便り」、歌「シルヴィアに」 D891、「春に」 D882、「ブルックにて」 D853a で、バリトンはディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ、ピアノはジェラルド・ムーアNMLCD)。■シューマンの「蝶々」 op.2 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第一番 K.279 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NML)。これは感動したとかすばらしいというよりも、現代でここまでのモーツァルトを弾くのは非常にむずかしいということである。わたしは何の楽器も弾けないが、いまのピアニストはブレンデルやピリスや内田光子のような退屈なモーツァルトを演奏するわけにはいくまい。マッコウリーはこれまでの感覚ではまあふつう程度の地味なピアニストということになろうが、わたしの感覚では現代においてやはり聴くべきであるピアニストのひとりのように思える。
Piano Sonatas

Piano Sonatas

gendai.ismedia.jpこれはおもしろい。「権利と義務は一体のものではない」というのはいい。しかし、これを読んでいると、「権利」というものの存在は無根拠のものであるようにも読める(これはわたしの妄想読みであるかも知れない)。この文章を読むとロックは『統治二論』において権利の根拠を「神」に置いているようであるが、それはつまり「無根拠である」に等しいであろう。じつはわたしはロックは読んだが読んでいないも同然の活字を追っただけ目通しなので、そのうち読み返してみたいようにも思う。まあそれはどうでもよいが、「権利は無根拠である」というのは、権利の存在意義の脆弱さを示すものではないかも知れない。逆に、権利がその存在が確たる根拠に支えておらないのに歴史的に自明視されるようになった、つまり「常識」*1みたいなものになったというのは、それこそ権利という概念の価値を高めるものであるようにも思われる。どうして必要なのか「証明」できないけれど、多くの人は「権利」というものが不可欠であると思わざるを得なくなったということだから。もしこれがそうなら、権利をむしろ「第一原理」に置くことは「正当」であるというべきかも知れない。これこそが、我々の「神」であると。

ちなみに「税金泥棒」であるが、国家による富の再分配というのは、わたしには当り前とか、常識とかのことに思える。どうして富の再分配が必要かというのも、究極的には絶対の根拠があるわけではないであろう。その「権利」というもの以外では。

珈琲工房ひぐち北一色店。ってミスドかひぐちしか行ってないじゃん、ですけれど、ミスドは気楽だしひぐちはコーヒーがうまいんですよ。
水島治郎『ポピュリズムとは何か』読了。第五章、第六章、第七章を読む。ポピュリズムは一見意外にも思われることに、まさに「リベラル」や「民主主義」を取り込んで主張をなしたりする。特にヨーロッパのポピュリズムが、「イスラーム批判」をするときなどはそうだ。さらに、無視された「サイレント・マジョリティ」の怒りを代弁したり、エスタブリッシュ政党の政策を阻止あるいは変化させたり。自分は本書を読んでいて、何だか不思議な気分になった。教条主義サヨクであるわたしが、ポピュリズムはむしろ必要ではないかとすら思えてくるのである。ただ、日本のポピュリズム政党であるとされる「日本維新の会」というやつは全然好きでないのだが。でも、もちろん自民党は支持できないが、旧民主党の残党たちもこれまた好きでない。話が逸れた。それにしても、イギリスや合衆国の「忘れられた人々」がまさにマジョリティになっているからこそそれらの国でポピュリズム的選択がなされてしまったのであるが、日本においてはどうなのであろう。どうも、日本ではいまでも「中流」が多くて、「忘れられた下流」はまだまだマイノリティなのだろうか。そして、まともな意味での(?)ポピュリズム政党が出てくるときがあるのだろうか。それが現れたとき、それをあるいは支持しそうな自分がいて我ながら驚かされるのである。そう思うと、自分は「思慮なき大衆」そのものであるのかとも思う。

*1:ここで「常識」というのは、小林秀雄的な意味においてと言ってもよいかも知れない。つまり、必ずしも論理的な根拠をもたない、「生きた知恵」のようなもの、というか。