稲葉振一郎『政治の理論』

晴。
寝坊。昨晩寝ているときにしんどくて目が覚めたり。


モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第三番 K.216 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター。安心のムター・ブランド。じつにいい曲ですね。このヴァイオリニストは昔からずっと素直な音楽性を保ちつづけている。古典派にぴったりなヴァイオリニストだと思う。

昼からカルコス。今日は意外と買えたな。

稲葉振一郎『政治の理論』読了。副題「リベラルな共和主義のために」。ヘタレ人文系としてはもう稲葉先生の本は読まなくていいかなと思っていたし、そもそも本屋に置いていなかったので買わなかったのだが、ネットで何かの文章(もう忘れた)を見て思い直して読んでみた。いや、すごくおもしろかったですね。といっても正直言って自分の能力を超えているのはまちがいない。本書の最初の方は(ヘタレ人文系として)これまで読んできたアレントフーコーが話題になっていて、かしこい人による啓蒙という感じで、知識が整理される快感を覚えた。しかしまあね、自分は「共和主義」とは何かすら正確には知らない不勉強家でありますよ。後半は自分にはむずかしかったです。特に、ゲーム理論や法制度に関する無知を痛感した。自分には本書の片々たる部分が却っておもしろかったですね。例えば、現代におけるナショナリズムはかつての宗教の役割を果たしているとか。また、著者のいう「共和主義」とは「公私の区別」を前提とするものであるということだが、その「公私の区別」を保証するものが「公的な」ものであるとするならば、実質的に「公私の区別」はなくなってしまうのであり、「しかも特権的な主体として残るのが国家になってしまう」(p.288)というのは深い含蓄があると思われた。著者はそれを退けたいようであるが、現在における「国家の強大化」(というものがあるとして)というのはまさしくこの現象であると自分には思われるのであり、さらにいえば将来は国家的な主権しか残らなくなるのではないかとすら予想する。ただしそれは古典的な暴力装置によっておこなわれるのではなく、本書で何度も言及されるフーコーの「ミクロ権力」、あるいは(これも何度も言及される)東浩紀の「環境管理型権力」によって担われるのであろう。自分は、これは不可避的な未来であると感じている。さらにいうとフーコーの「自己による(無意識的な)自己の discipline」というのは、インターネット(的世論)と高い親和性をもつのではあるまいか。
 などと個人的なポエムを記してしまったが、とにかく本書はおもしろかった。本当は若い人に勧めたいのであるが、著者はそれよりも自分のようなおっさんの方が(とは書いていないが笑)楽しめるだろうと書いておられるので、自分のような未婚ニートおやじでない、まじめに働くおっさんたちに勧めておきたいと思う。ホント、話がむずかしいのがつらいのですけれどね。

政治の理論 (中公叢書)

政治の理論 (中公叢書)

個人的には国家とかもうウンザリしているのだが、それでも国家は最悪だけれどそれよりマシな存在がないという意味で、国家を否定できないのがつらい。田舎にいようが山奥にいようが、国家というものから逃れられない。そのウンザリ感が自分の根底にある。本書はそのような自分の感覚を裏切るものではなかったけれど、本書を読んで希望は増えたかというと、それはさあどうかわからない。どうしようもない素人から超優秀な専門家まで、国家についてそれぞれまちまちなことを喋々し合っている現実が、きもち悪くて仕方がない。結局、滑稽なことを言わずに済むためには、専門家並のお勉強をしなくてはならない(ちなみに自分にはそれはムリだ)。もう、現代人の自業自得である。