片山杜秀『音楽放浪記 世界之巻』 / ミシェル・フーコー『処罰社会』

昧爽起床。曇。

NML で音楽を聴く。■ショパンマズルカ op.17, op.24 (全八曲)で、ピアノは Antonio Barbosa (NMLCD)。■ブラームスのヴァイオリン・ソナタ第一番 op.78 で、ヴァイオリンはヴィクトリア・ムローヴァ、ピアノはピョートル・アンデルジェフスキ(NML)。第一楽章は、これはないなあという感じ。この曲は内気な中年男性のロマンティシズム(!)を歌い上げた曲のようにいまの自分は聴いてしまうが、若いムローヴァからすると「キモい!」という感じなのだろうか。曲の表面を撫でたような演奏である。それに、テンポも自分の好みからすると速すぎる。ブラームスはちゃんと ma non troppo と付け加えているではないですか。でもまあ、終楽章などはなかなかよかった。そもそもつまらない演奏なら途中で聴き止めている筈なので。この曲が「雨の歌」と呼ばれるのは終楽章の主題が同名の歌曲から取られているからで、ブラームスが友人の素朴な詩にメロディをつけた、佳曲だったと覚えている。そのことをちょっと思い出した。しかし、ブラームスほど現代から遠い人もいないな。わたしはさみしい。

ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番&第2番&第3番

ブラームス:ヴァイオリンソナタ第1番&第2番&第3番

 
寒い。
大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。クリームイン・マフィン キャラメルアーモンド+ブレンドコーヒー386円。モーニングセットなのでお得、ってみみっちいですね。片山杜秀さんの音楽評論を読んでいたのだが、おかしくて笑えて仕方がない。しかし、片山さんがトリックスターぶりを発揮して笑い飛ばしているのはわたしのような硬直化した聴き手なのがありありとわかって、我ながらあんまり見よい図ではないね。それにしてもあんまり理屈っぽくて笑えるのだが、よく考えてみると西洋人はこういう感じで理念で音楽を聴いているというか、少なくとも書いているので、自分みたいに何の思想もなく音楽を聴いているというのはむしろまちがっている気もしてくる。いや、片山さん、なかなか厄介なお人だ。日本だから異端なのかも。


■デュティユーのピアノ・ソナタで、ピアノはアレクサンダー・ソアレスNML)。これはなかなかよい曲ですよ。適度に前衛的で適度にわかりやすいというとちょっといい言い方ではないかも知れないが、フランス的な洗練とかつ迫力もあり、きらきら煌めく彩りが美しく華やかで、よい感じ。ふつうに聴き応えがある。ピアニストもこの程度は完全に消化しているというようで、頼もしい。デュティユーだから未知ということはあるまいが、実際はそう聴く人もいないだろうから、二十世紀の音楽に興味がある人にはおすすめしておきます。

Notations & Sketches

Notations & Sketches

 
片山杜秀『音楽放浪記 世界之巻』読了。巻末付録の参考音盤ガイドすらおもしろすぎる。教養のないわたしは正直言って片山さんが何を言っているのかよくわからないのだが、とにかく可笑しい。しかし、この人は何でこんなことまで知っているのだと驚かされることが多すぎる。例えば本書の最後のコラムでとりあげられるのはベネズエラの革命の話ばかりで、なるほどチャベス大統領というのはそういう人なのかということはよくわかったが、ほとんど音楽に関係がない(笑)。シューベルトの畢生の名作であるピアノ・ソナタ変ロ長調 D960 がその近眼性(?)において「ひみつのアッコちゃん」のチカ子であるというのはまさに驚愕させられる説であるが、しかし「ひみつのアッコちゃん」のチカ子っていったい誰だよ。なお、文庫解説はわたしの苦手な三浦雅士先生である。さて、日本之巻は買おうか、どうしようか知ら。しかし、森羅万象は音楽と関係があるのだから、片山杜秀は正しいのだ。


図書館から借りてきた、ミシェル・フーコー『処罰社会』読了。1972-1973年度コーレジュ・ド・フランス講義。非常におもしろかった。本書の内容とは直接関係はないが、読んでいて現代日本において国家(あるいは「公的」なもの)による生の管理がほぼ完成しつつあることに気づかされた。国家による管理の外で、我々は既に生きることが不可能になっている。まだそれは我々の生のすべてを覆っているわけではないが、基本的には完成しており、あとはインターネット化も含め、手法の洗練がされていく以上のことではない。しかしこれは、誰がやった、誰か特定の人物がやった、わけでないのがむしろ驚きである。我々自身が望んだことのようだ。まさに人間の、人生の家畜化であり、それを否定的に捉える人間がほとんどいないのに驚かされる。先に「本書の内容とは直接関係はない」と書いたが、フーコーが剔抉していく「監視」というものは、まさしく現代のそれに直結している。(フーコーがそう言っているわけではないが)これを逆転する方法がほぼないというのも、まったく驚いてばかりであるが、ここでも驚かされないではいられない。フーコーはこの時点では戦う気満々であるが、その道はどうやら袋小路であったかのようだ。現在を見ると、そう思われる。

なお、フーコーの『監獄の誕生』が出版されたのは1975年であり、このコレージュ・ド・フランス講義はもちろんそれを準備したものである。なお、本書末尾の「講義の位置づけ」は読み応えのあるもので、日本にも優秀な学者がいるものだと感心して読んでいたのだが、どうやら日本の学者の書いたものではなく、翻訳のようだった。どうでもいいが。


浅田さんがどこかでさらりと「もちろん丸山眞男くらい高校生のうちに読んでおくべきだと思いますよ」というようなことを仰っていたのを思い出して、こんな齢になってから岩波文庫に入っているのを読み始めた。とりあえず超有名な「超国家主義の論理と心理」という論文を読んでみたが、ははあ、ほとんど呆れ返りますね。ここでの「日本軍」の無責任体制の話って、いまの日本の腐った官僚のあり様そのままではないか。浅田さんが「高校生」というわけだ。たぶんいま実質的に日本を切り盛りしている官僚というのはまさに自分の世代だと思うが、戦後何十年も経ってまったく変っていないとは、本当に国民のメンタリティというものは変えたくても変わらないものだ。この超有名な論文があっても、ホントに変わらないのだな。まあ正直言って丸山眞男とかいまでもあんまり興味がないけれど、そういう問題ではないか。しかし、学問ってむなしい、のか? それとも若い人たちは変えてくれるのか? それを期待しよう。クズな大人で申し訳ないです。