八木沢敬『意味・真理・存在』/東浩紀再読

日曜日。晴。
同じジョウビタキが庭に来て、いつも決まった場所に留まる。でも、なかなか写真が撮れない。
カルコス。この前まで平積みされていた本を買おうと思って行ったら、今日になってなかった。うーむ、またアマゾンか。折角近所の本屋で買おうとしたのに、残念。それから、やはり「すばる」は入らなくなってしまったな。

八木沢敬『意味・真理・存在』読了。副題「分析哲学入門・中級編」。なかなか刺激的だった。自分はこれまでどうも分析哲学に馴染めなかったのだが、本書のある記述がヒントになって、興味が増してきた。というのも、本書の「真理の対応理論」によると、「『ケイコは紅茶を飲んでいる』は真である」という文と、「『ケイコ』という固有名が指示する人物は、『紅茶を飲んでいる』という動詞句が言い表す性質を持っている」「ケイコという人物は、紅茶を飲んでいるという性質を持っている」「ケイコは紅茶を飲んでいる」というそれぞれの文は、同等であるという(p.155-156)。(これらを英語に訳した文を考えてみてもいい。)これは馬鹿馬鹿しいような話なのだが、言いたいことはわからないでもない。これからが同等であるというのは、命題の背後に、何か言語を超えたもの(これはたぶん、単なる語の「意味」ではないと思う)を暗黙に仮定して、それが同等であるということを示しているのだ。分析哲学はその「背後」の存在を決して明示しないが、自分には、こう考えると納得がいく。これは一例に過ぎないのだが、分析哲学分析哲学らしい考え方に基づいているのではないか。これが果して、筋のよい読みなのかそうでないのかは、わからないのだが。
 本書には続編が予告されているらしいので、楽しみに待ちたい。

意味・真理・存在  分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)

意味・真理・存在 分析哲学入門・中級編 (講談社選書メチエ)

東浩紀を再読する。途中ながら、めちゃめちゃ面白いのはいいのですけれど、確定記述の束に還元できない固有名の残余が「幽霊」*1っていうのだが、いかに「コミュニケーションの失敗こそが固有名の剰余を生じさせる」*2って云ったって、これって否定神学システムを免れているのですか。結局、何かの残余じゃん。ジジェクの洗練もダメなんでしょう? 単なる言い逃れじゃないのかなあ。まあ、自分には何だかよくわかりません。最終章は明日読もう。
 結局、第三章までで自分の理解したところでは、極大雑把に云うと、コミュニケーションを図るときには、自分の伝えようとしていることが相手に完全に正確に伝わるということはあり得ない(誤配)から、確定記述の束によって理解されるシニフィアンには、どうしても意味のゆらぎ(幽霊)が出てくる、なんてことなのですけれど。こんな単純なことではないとおっしゃいますか。では沈没。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて


ブログで、ツイッターでのツイートの保存場所になっているものが最近増えてきたが、これほど興ざめなことはない。個人の勝手だとは云え、以前の方がよかったものがほとんど。

*1:最終的な「幽霊」の定義は、「すべてのシニフィアンに必然的に取り憑く確率的誤配可能性(八字傍点)、誤配されるであろう可能性(約束)と誤配されたかも知れない可能性(デッド・ストック)の組み合わせにほかならない」(p.134)とある。これもシニフィアンにおける残余にちがいない。

*2:「確定記述の束に還元できない」というのと「コミュニケーションの失敗」って、どういう関係があるのか? 後者ってどこから出てきたの?