こともなし

日曜日。未明起床。
虫が鳴き、カルガモがガアガアいっている。まだ、外は真っ暗だ。いや、ほの明るいか。(05:33)
ひと通りネットの未読を巡回し、心を調えたあと、ふたたび部屋を暗くして寝ころがる。PC のモニターの明かりと、冷却ファンの音だけ。
 
晴。
田中洋子編著『エッセンシャルワーカー』(2023)の続きを読む。自治体相談支援員、保育士、教員、ごみ収集作業員、看護師、訪問看護職、などのケースについて読んだ。すべてひと括りにはできないが、いわゆるブラック労働、非正規雇用、低賃金、などが印象に残る。特に、日本では、長時間労働に関する規制が他の先進国に比べ、非常にゆるい。残業代さえ払えば実質どれだけでも働かせられるし、その残業代も出るとは限らない(それは、いわゆる「働き方改革」でどうなったのだろう)。それもこれも含めて、「人間らしく働く」という(当たり前の)発想が、全然当たり前になっていないのを感じる。
 え、そんなことも知らなかったの?っていわれそうだ。わたしは、現実をよく知らない。日本では働くということに、「フェアネス」は基本的にない。特に、弱い立場の人たちにおいて。
 
日本企業は「礼儀正しく時間を奪う」 マイクロソフトが働き方改革で歩んだ“地雷だらけ”の道 - ログミーBiz
なるほど、世界のビジネスの「最先端」はこういう風なわけか。自分の想像力が追いつかなさすぎて、気持ちが悪くなってくる。たぶん、「あちら側」も、わたしの生き方など、まったくわからないことだろう。さて、ここには何か理解すべきものがあるな。何のために働くか、さらにいえば、何のために生きるか。よく、日本は「労働生産性」が低いといわれるが、それはどういうことなのか。「ビジネスで世界を目指す」とは、いったい何なのか。
 ついでにいっておけば、こういう風な世界というのは、「エッセンシャルワーカー」などの世界と相反するところ大だろう。彼ら彼女らが、エッセンシャルワーカーなど歯牙にもかけていないのは、容易に想像できるところである。低学歴で誰にでもできる仕事しかできない、社会の底辺、とでも思っていたところで、驚きはない。蔑視の構造。
 
上のリンク先記事で、いちばん大事なのは「時間」であるという。個人の時間ほど、大切なものはない、と。確かに、誰でも納得しそうな考え方だ。自分の時間が奪われるのは、耐えがたい。
 でも、本当にそれでおしまいなんだろうか。時間などというものが、存在しないとすればどうか。あるいは、過去や未来というものはなく、「現在」しかないとすればどうか。
 あるいは、働くこと自体が「自分の時間が奪われる」ことかもしれない。それでも、我々は働かざるを得ない。そこでは、労働の価値とは何か。
 まったく、いまさらの問いだな。でも、こういう根源的な問いが必要になっている時代のように思う。働いても働いても、人間らしく生きられないように強いられている人たちが、少なくない時代である。どれだけ働いても、報われない、ということ。
 

 
昼。
長時間、ごろごろぼーっとする。
 
【批評の座標 第3回】最底人を生きる――80年代の浅田彰について(西村紗知)|人文書院
なかなかおもしろい。西村紗知(1990-)は誠実で優秀だな。こういう優秀さが昔ほどウケないのが現在で、そこいらが西村紗知の不幸なのかもわからない。知らんけど。
 わたしがちょっと残念に思うのは、浅田さんはかしこすぎた、概念を弄(もてあそ)ぶのがうますぎた、ということだ。浅田さんは、すばらしい感性ももっているのだけれど、それでもやはり頭がよすぎる。批判的知性がもう少し弱く、自意識がもうちょっと強くなかったら、もっとおもしろい仕事がたくさんできたろうに。自分の言葉に絡め取られてしまっている。(なんてのは、浅田さんにすれば余計なお世話、というところだろうが。)西村紗知にも、似たようなところがあるのかな。
 
「批評の座標」書籍化のお知らせ――まとめに代えて|人文書院
上の西村紗知を読んで、note での「批評の座標」のシリーズ(全23回)を拾い読みしてみた。書籍化されるということでほとんどの文章が冒頭しか読めないが(西村のはいまのところ全文が読める)、これが現在の「新進気鋭の批評家・ライター」なんだなということで、興味深く読んだ。
 もちろん、現在は「批評が不毛な時代」である。批評って、わたしもそう言われるものを長年読んできたが、いったいなんなんだろうって、つい思わされてしまった。そもそもわたしは小林秀雄に出会って本を読むようになったという、超アナクロなどうでもいい人間であるが、なぜ批評を読んできたかって、そりゃおもしろかったからさ。批評家としては、柄谷行人蓮實重彦も、福田和也東浩紀もとってもおもしろかった。まあ、いまは柄谷行人も東さんももはや批評家でないし、福田和也は書けなくなってから死んでしまったが。(わたしは、吉本さんをあまり批評家と思っていない。それに納まらない器だった。)
 それにしても、このシリーズ、一部を拾い読みしたにすぎないが、正直いって、お前らごときがこの人を論ずるの? 全然、文章の魅力も実力も、足りてないじゃん、つまんないって思ったけれど、わはは、わたしごときがどの口でいう、ってなもんだね。ますます何様だと思うけれど、西村紗知は実力も文章の魅力も、それなりにあって、読ませるよね。
 ほんと、批評って何で、批評の魅力って何だろって、全然わかんないな。小林秀雄柄谷行人も、自己表現、文学として(わたしには)すごく魅力があったのはまちがいない。じゃあ、なんでいまの批評はつまんないのか? ま、わたしが時代遅れで、それだからいまの批評がわかんない、ってのはありそうなことだ。よくは、わからない。みんな小粒になってしまった、ってのはあると思うが、じゃあその理由は? それこそポストモダン化で、やるべきことはやり尽くされてしまったからか。そうね、確かにフェミニズム批評みたいなのは、まだおもしろくあり得るのかも知れない、過去の大批評家たちがやってこなかったことだからね。実際、斎藤美奈子さんとか、僕はあまり好きではないけれど、確かにおもしろいと思う。
 

 
夕方、ドラッグストア。ポイント五倍の日だから、たくさん客がきていて、セルフレジもいっぱい。
外気23℃で涼しい。明日の朝は15℃の予想っていうから、もう寒いよね。
 
夕飯は畑に勝手に生えたひょろ長いカボチャのグラタンと、豆サラダ、デザートは紅玉のコンポート。
 
新聞を読んでいたら、谷川俊太郎さんの連載の詩が目に留まった。うろ覚えだが、確か、何か確実に存在するのだけれど、名付けられないものがある、というような詩だった。どうして名付けられないのか、それは、名付けてしまえば失われてしまう、そんな微妙なものだから――たぶん、こんな内容だと勝手に読んで、さすがはいまを生きる大詩人と、感銘を受けた。はしなくも連想したのは、種村季弘さんのことだった。種村さんは、いちばん大切なことは、語らないのだと、おっしゃっていたという。それが谷川さんのいっているのと同じことかはわからないが、わたしはそう連想したのだった。そう、名付けてしまえばなくなってしまうもの、わたしにも確かにある。わたしもまた、いちばん大事なことは、書くことができない。
 
 
のんのんびより』第6話まで観る。特にこれといった話のない過疎地のんびりアニメだが、おもしろいな。U-NEXT で配信終了が迫っているから観始めたので、ちょっと時間的に 2期以降が観られそうになくて残念。しかし、有名作なんだが、ほんとに終了なのかなあ。あと、絵もきれいだよねー。過疎地の感じがよく出ている。OP も結構好き。
 特定の聖地はないらしいが、東京から新幹線と在来線を使って六時間、飛行機も可っていう過疎地だから、勝手に推測するとして、どこだろう。OP に雪合戦のシーンがあるから、北の方か、裏日本か。それで、海水浴へ行くのに何度も鉄道の乗り換えがあるとか……。
 という場所を ChatGPT に推測させたところ、下北半島新潟県村上市能登半島が挙げられた。すごいな、なるほどって感じ。おすすめ(?)は村上市なんだってさ。しかし、村上市って、過疎地なの?
 というのも ChatGPT に訊いてみて、興味深い回答を得た。ま、事実の判定がわたしにはできないので、ここには記さない。