高橋源一郎『「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3』

晴。
音楽を聴く。■バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番BWV1002 (エネスコ、参照)。■シューベルト弦楽四重奏曲第十三番D804(メロスQ、参照)。いわゆる「ロザムンデ」。久しぶりに聴いたが、こんな長い曲だったかな。といっても 35分くらいではあるが。
吉本さんはもちろん大知識人なのだけれど、ふつうの人であることを已めなかったのだな。こういうことを云うと叱られるかな。

図書館から借りてきた、高橋源一郎『「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3』読了。大変に読み応えがあり、様々ことを考えたが、何も書かない方がいいような気がする。少しだけ書くとすれば、何を書くか。本書は東日本大震災の直後から書き始められているようで、源一郎さんはそのショックからか、ものが読めなくなっている。なので、読める数少ない文章についてと、また読めないことそのものについて書かれている。普通の基準からすると大した内容はなさそうだが、源一郎さんのことだから油断はならなく、やはり読ませる。それから、若い人たちへの理解、共感がある。これは源一郎さんにすればいつものことだが、正直言うと少し引っかかった。というか、源一郎さんは間違いなく若い人たちのよき理解者・共感者であるが、それで個人的なことに、どうも自分はそうでないことがわかってしまった。僕も若い人たちの理解者でありたいし、彼ら彼女らの役に立てればいいとは思うのだが、どうも本当のところは、彼ら彼女らの抑圧者であるらしい。残念なことである。それは変えていきたいが、性格の深いところの性質だから、なかなかむずかしいことはわかっている。だいたい、自分自身の世代に対してもそうなのだから、ましてやだ。
 そして、本書の後半は源一郎さんが復活してきたようで、戦争というものに対して様々な角度から切り込んでいる。それはとても複雑で繊細な仕事であり、まさしく知識人の営為であって、言葉遣いはやさしいものの、ハード極まりないものだ。それこそ深い知識と強靭な批判的意識のなせる技で、教養など無意味と言っている人たちに、このようなものを書く力がないことは明白である。今風の考え方だとあまりにもベタだということになろうが、僕はこういうものを読むことを好む。源一郎さんは単純バカではあり得ない。こういう文章を他に書ける人は、現代日本には殆どいないと断定してよいだろう。僕の言っていることがウソだと思うのなら、まあ読んでみて下さい。多少の読解力があれば、明白なことだと思われる。って、源一郎さんみたいに柔軟な文章で書くことができなかったなあ。

小島信夫古井由吉も、もっと読まないといけないなあ。赤坂真理の『東京プリズン』は積ん読になっているが、これはおもしろそうだ。
かしこい人たちのウソとか誤魔化しを見破ることはむずかしい。源一郎は期せずしてそのようなウソの類をあからさまに見破っているが、それは自分の実感と深い知識を綯い合わせているからだと思う。自分の実感、直感みたいなものがないと心にもないことを言う羽目になるし、手持ちの知識がないと間違いをいうことになる。どちらも共に必要なのだが、これは容易ではない。でもまた、何故か「大衆」はある意味間違えないのだよね。しかしいつもそうだというわけでないから、厄介なわけだ。

The 21st IOCCC: Most complex ASCII fluid のエントリ - まめめも
実行してみた。すごいなあ。何か遙か雲の上だ。