中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』再読/平澤章『オブジェクト指向でなぜつくるのか』/大泉一貫『希望の日本農業論』

雨。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第十番K.330(アンドレアス・シュタイアー、参照)。これは悪くないが、終楽章で音符を勝手に変えて演奏しているのは悪趣味。■ベルク:ピアノ・ソナタop.1、管弦楽のための三楽章op.6、ウェーベルン:ピアノのための変奏曲op.27、交響曲op.21(イヴォンヌ・ロリオ=メシアンハンス・ロスバウトブーレーズ参照)。イヴォンヌ・ロリオのピアノがいい。

中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』再読。何の気なしに読み返してみたのだが、驚くべき本だった。例えば、適当に抜き出してみる。「この話を聞いていて、私は網野さんが天皇権力の根源に、性的な原理を見出そうとしているのがわかった。吉本隆明天皇制の構造の中に、あからさまな形での性的な原理を見出している。」「『性的である』とは、自然と直接的な接触をしている活動すべての中に見出される。貨幣の中にさえ、性的な原理が働いている。網野さんは『性的であること』を自然哲学の基本原理にすえようとした、まことに稀有な歴史家だったのだ。」(p.155)等々。
 それにしても感動的な本だ。本書は中沢さんの義理の叔父である網野善彦氏が亡くなられた後に追悼として書かれたものだが、本書には根源的な深いレヴェルのものに否応なくドライブさせられている、デモーニッシュな人たちがたくさん出てくる。そして網野さんと中沢さんは、素晴らしい「オジ‐甥」関係の体現者だ。血筋というのは、やっぱりあるのかな。中沢さんは、中沢家の「トランセンデンタル」な気風が、網野史学の触媒になったところがあるようだと書いているが、確かにそんな気がする。こういうところからこそ、ラディカルなものが出てくるのかも知れない。

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

僕の叔父さん 網野善彦 (集英社新書)

図書館から借りてきた、平澤章『オブジェクト指向でなぜつくるのか』読了。オブジェクト指向は現実をそのままプログラミング化する方法というのはよく云われる比喩だが、著者はそれはよくない比喩だという。ポリモーフィズムは「共通メインルーチン」、継承は「クラスの重複を排除する仕組み」と考えるべきだと。確かにそれは目から鱗が落ちる説明ではあるが、結局著者も在来の比喩も使うのですけれど。オブジェクト指向とメモリの使い方については、これは参考になる。デザインパターンUML(統一モデリング言語)は、自分にはまだ高度すぎるし、だいたい本書ではほんのさわりしか書いていない。あとは大規模開発に関する話で、これもいまの自分には関係がない。まあ、読まないよりはよかった本。
 ちなみに、だいたいは Java について説明してあって、歴史的な Simula67 とか Smalltalk の語もよく出てくる。Ruby や C, C++, COBOL, Lisp, VB.NET なども頻出。ちなみに Perl, PHP, Python, JavaScript の語は一度も出てこない。ははあ、という感じ。
オブジェクト指向でなぜつくるのか 第2版

オブジェクト指向でなぜつくるのか 第2版

図書館から借りてきた、大泉一貫『希望の日本農業論』読了。著者は日本の農業の未来は明るいと連呼するのだが、本書を読み終えて、どうしてそう言えるのか、自分にはよくわからなかった。どうも、日本の農業の未来は暗そうで、問題山積、農業が成長産業になるのはとても無理だというような、そういう内容だと読めてしまったのですが。とにかく行政のやっていることは全然ダメだという内容ではないの? 意欲的な農業者はそれなりに存在するけれど、全然足りないのでは。農協改革も可能なの? もちろん、希望に満ちているならそれでいいわけです。著者の言いたいことが汲み取れなくて御免なさい。
 しかし、オランダはすごいな。九州くらいの面積なのに、農産物輸出額でアメリカに次ぐ世界第二位だとは(2009年)。農業技術もロジスティクスも徹底してIT化され、情報産業化されているとは。日本も技術的にこういうことが出来ないのかね。出来ないのなら、それはどうしてなのか。日本の農産物輸出額は世界で第五三位ですよ(2009年)。なんですか、それは。それのどこに希望があるのか。農業従事者の年齢は上がり、総数は少なくなるばかりで。いや、悲観的ことばかり書いて御免なさい。でも、これって本書に書いてあるのですけれども。
希望の日本農業論 (NHKブックス)

希望の日本農業論 (NHKブックス)