シュトルム『聖ユルゲンにて/後見人カルステン』他/玄侑宗久『荘子と遊ぶ』

冬至。曇。
皮膚科。イオンの写真屋
シュトルム『聖ユルゲンにて/後見人カルステン』他読了。短編三本。どれも芸術的には手堅く、見事なものである。しかし、ナイーヴな感想になるが、どの話も悲しすぎるのではないか。老境に至って、人生に裏切られる話ばかりなのだ。これが「みずうみ」の作者の手に成るものだとは。老いるとは、本当にこんなものなのだろうか。まあ「聖ユルゲンにて」のような話は、(確か)シュティフターにもあったような気がする。若い時に愛しあった恋人たちが離れ離れになり、老いてから再会する(あるいはしそこなう)というような。

聖ユルゲンにて・後見人カルステン 他一篇 (岩波文庫)

聖ユルゲンにて・後見人カルステン 他一篇 (岩波文庫)

玄侑宗久荘子と遊ぶ』読了。自分は玄侑ファン。本当に荘子と遊んでおられる。稀有の書。
荘子と遊ぶ 禅的思考の源流へ (筑摩選書)

荘子と遊ぶ 禅的思考の源流へ (筑摩選書)

Eテレ坂本龍一「スコラ」ドビュッシー、サティ、ラヴェル編(2)(3)を視る(録画)。ドビュッシーの「海」の構造分析をやったのだが、これが面白い。決ったモチーフがなさそうで、次々に新しいフレーズが出てくるという印象なのだが、それでいて統一感がないわけでもなく、また隅々までドビュッシーらしいというのは、いったい何なのか。坂本教授も、じつに不思議で、どう考えていいのかわからないといった様子だった。とにかく、カデンツへの解決がないのははっきりしているけれども。
 サティの、ノイズを楽曲に入れてくるというのも、今では当り前のことになっているけれど、当時としては、聴いている人はビックリしたであろう。また、小節線を取っ払ったり、ずっと四小節を反復したり、今でいうBGMを考えたりというのなども、既成の音楽の枠を壊そうとしたわけだ。こういうのは、今では却って陳腐なくらいだが。
 生徒らのワークショップも、とても刺激的だった。水と遊びながら段々と即興演奏に入っていったり、楽器でないものの音を使いながら、ガムランと共演するとか。教授たちも感嘆。やればできるものですね。


明日からしばらくの間、少し忙しくなる。