八十年代カラヤンのハイドン「ロンドン交響曲集」を聴いた

未明起床。闇の中で雷鳴、激しい驟雨。
 
いま差別的発言は必ず、必然的に、絶対的に「悪」ということになっているが、それだからこそ敢て差別的発言をしていくべき、ってことはないか? でも、それは「推奨される」生き方ではないから、つらいし、悪に身を置くというのは決して理解もされないし、それに、別にわざわざわたしが差別的な発言をしなくても、そもそも世の中は差別的発言であふれているわけであるが。敢て「逆張り」のようなことをすることもないか。でも、理論的には押さえておくべき考え方かも知れない。
 とにかく、反差別の「正義」もまたはびこりすぎているんだよ。そして、それが当たり前のような「よい」世の中になりつつある。徹底的にサニタイズされた世界。「絶対的な悪」というのは「絶対的な善」同様、あってはいけないものである。世界を「光」で満たしてはいけない。善と悪は循環する。マニ教的二元論、あるいはグノーシス主義
 
しばらくうとうとする。
晴。雲多し。
 
NML で音楽を聴く。■ハイドン交響曲第百四番 Hob.I:104 で、指揮はヘルベルト・フォン・カラヤンベルリン・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。これで八十年代カラヤンハイドン、「ロンドン交響曲集」全十二曲の録音をようやく聴き終えた。3.25 からか、正直いってこのアルバム、わたしとしては最近ではしんどさを我慢して、もっともがんばって聴いたそれである。器の小さい人間には、ハイドンカラヤンもしんどすぎた。へんな「義務感」すら覚えてしまったね。とにかく、すごいアルバムである、是非聴いてほしいと思うんだけれど、そうはいってもなかなかムリだよね笑。いや、器の大きい皆さんならだいじょうぶだ!

NML にはカラヤンハイドン、「パリ交響曲集」もあるんだけれど(NML)、疲れたからちょっといまはいいやって感じ。
 
スーパー。山の新緑があざやかだ。「山笑う」だねと老母がいう、ほんと、いつも俳句の季語には感心させられる。
 
そういえば、黄金頭さんが塔本シスコを褒めていてさすがだと思ったな。
「この展覧会では塔本シスコという人の作品が一番のお気に入りになった。ぜんぜん知らなかったが、このひとの作品はいけていると思った。抜群だ。」
わたしは岐阜県美術館での展覧会(2022)を見逃していたのが、痛恨である。まったく、何を見ていたもんか。
 

 
昼。ぱらぱらと雨。
岐阜県美術館へ行ってくる。

所蔵品展(一般340円)を観る。矢橋六郎、シャガールの連作版画「サーカス」、いつものルドン、など。矢橋六郎(1905-1988)は岐阜県大垣市出身という。
 ついでに隣の岐阜県図書館へ寄って、ユリイカの『総特集 福田和也』をテキトーに斜め読みする。江藤淳から受け継がれた福田の「妖刀」はなぜ失われたのか、という観点がちょっとおもしろかった。福田自身がそのようにいっていたらしい。
 わたしが福田を読んでいたのは、考えてみればそんなに長い間じゃなかったな。ある時期突然出てきて、またたく間に至るところでその名を見かけるようになり、売れっ子文芸評論家になって、それで昭和天皇についての評伝(?)あたりからわたしは読まなくなった。五、六年間くらいだったか。わたしにとって福田は、とにかくめっぽうおもしろい、実力と深みのある文芸評論家としてだった。
 その「妖刀」はいかにして失われたか? 簡単なことだと思う、きわめて幼稚で貧しい、まるで人生がゲームと変わらなくなったような薄っぺらな時代に、ある意味で「ついていけなく」なったのだ。福田は、あまりに豊かで、本格的すぎたのだ。彼は、我々の人生が徹底的に幼稚化したことを見事に文学にした村上春樹を高く評価していたが、結局、それが押し進んでいった先まで、ついていけなくなったのだと思う。それはそれで、一本筋の通った生き方だったのではないか。
 わたしもまた、その「きわめて幼稚で貧しい」時代にどっぷり浸かった幼稚きわまりない人間であるが、所詮古くさい田舎者であると自覚している。わたしの「文学」は、たぶん福田和也までだったと思っている。
 

 
夜。
まりあ†ほりっく』第9話まで観る。