雨のち曇。のち晴れて、蒸し暑い。
朝から虫が鳴き、蝉が鳴かない。
スーパー。果物がめちゃくちゃ高い。テキトーに幸水(梨)を買ってきたのだが、安いのでも一個 300円もした。シャインマスカットがたくさんあったのだが、一房 2000円以上だよ、貧乏人には買えん。
昼。
イオンモール各務原へ。プールでちんたら泳ぐための水着が擦り切れたので、2F の SPORTS AUTHORITY で男性用水着を買う。arena の 5390円、高いのか安いのか、よくわからない。
ついでに 3F の UNIQLO で部屋着などを買おうと思っていたら、1F へ移転のため九月終わりまで休業とのこと。しかたないな。
イオンモールの中を歩いているとちょっとコンデジで撮ってみたいと思わせられるときもあるのだが、店内撮影禁止とあるので、マジメなわたしはそれに従う。
夏休みのため、イオンモール内は人であふれかえっている。子供だけでも結構来ているな。3F フードコートもかなり席が埋まっていて、どうしようかと思ったが、まあいいかとミスドでチーズホイップ+ブレンドコーヒー484円。チーズホイップは中のクリームチーズがなかなかおいしい。
小林信彦さんの『コラムは笑う エンタテインメント評判記 1983-88』(1989)を読み始める。自分にこんなに無知な分野があるのだと、呆れるくらい何も知らない。わたしは本当に田舎者なので、しかたがないなあと思う。いまさら、どうしようもない。でもまあ、小林さんの文章の上質さはわかるし、批評の的確さも、たぶんわかると思う(そう思っているだけかも知れないが)。それに、まあ小林さんでも、田舎で無知な田舎者として生きる、ということは、わからない(当たり前だ)のもわかる。とにかく、小林さんみたいなのが、教養ある都会人なのだ。
(クラシック)音楽の世界も文芸の世界も、いま現在、日本にまともな批評家というのはいるのだろうか。何様だが、わたしは、たぶんいないと思う。濁流がやってきて、味噌もクソも一緒くたにして押し流してしまったからな。特に若い人たち(というか、自分の世代だってそうだが)は、自分のおそろしく狭い世界で、マニアックにやるしかなくなっている。わたしは別に、自分を棚に上げているつもりはない。
小林さんの『決定版 日本の喜劇人』『決定版 世界の喜劇人』は共に図書館にあるから、借りてこよう。
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夜。
横田南嶺老師の『無門関に学ぶ』を読んでいて、印象深い言葉があった。五祖禅師の「好語は説き尽すべからず」(よい言葉は言いすぎてはならない)というのである。その心は、よい言葉を言い過ぎると、人に侮られるから、というのだ。これはちょっと考えたね。わたしは、(特にかしこい)人からは、侮られるくらいでちょうどいいと思っていたので。でもこれは、たぶんそういうことではないのだろうな。同じく五祖禅師の「勢いは尽すべからず」(調子に乗りすぎてはいけない)というのと、同じことなのだろう。よい言葉は、よいことをいっているぞと思うと、ついいいすぎる、というようなことではないか。とかね。確かに、慢心によって侮られるというのは、恥ずかしいことである。
図書館から借りてきた、横田南嶺『無門関に学ぶ』(2024)読了。よく構成の考えられた、禅の教科書的な本。もちろん、本書を「禅の知識を得るための本」と捉えたのでは、ダメなのであり、むしろ自分を壊し、危機に陥れるための本として、読まねばならない。鏡はきれいに磨くものではなく、汚れていようが何だろうが、いったんは叩き割ってしまわねばならない。
本書には「菩提心」の大切さもきちんと説かれている。それはわたしなりにいうなら、「生きとし生ける物への惻隠の情」であり、それがすべての基本であって、もしそれを欠くなら、どれだけ高い境地に至ってもまったく無駄なことである。いまの時代なら、特にネットでいじわるく、感じ悪くふるまわないということだ。と、わたしは自分でそれがわかっているのだが、これがなかなかにむずかしい。ネット上でマウントを取りたいという我々の醜さは、それほどまでに強いのだ。
我々の歩みは、決して最終地点に到達し、これでおしまいということがない。「百尺竿頭に一歩を進む」とは、そのことである。
ネット時代にむずかしいのは、ナルシシズムを経由しない、健全な自尊心を得ることだと思う。オレがオレがと皆がサイバー空間でわめきちらしている中、劣等感も優越感も抱かないこと。これは本当にむずかしく、わたしごときも当然ながら、達成できていない。たぶん、一生の課題であろう。本書は、そこのところは少し慈悲が弱いような気もする、何様大爆発だが。
ま、結局わたしなどは、まだまだってことですね。
僕は最近思うのだが、露伴が『努力論』で、確か「福を植える」というようなことをいっていたと覚えているけれど、さすがだな、と。心によい種を蒔いておけ、ってことだよね。なかなかいえることでも、簡単にできることでもない。特にネット時代、我々はお互いに呪いあって、心に「福を植える」と反対のことに日々勤(いそ)しんでいる。