チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』

晴。
 
もともとは生殖が中心だった。それは人間が生物である以上、当然のことだったといえる。しかし、現代は生殖よりも仕事が大事な時代だ。会社。資本主義。
 
スーパー。
毎日いい天気で気持ちがいい。外出に上着がいらなくなった。
 
 
ほんと、AI の進歩というか進展というか、すさまじすぎるな。GPT-4 とか、司法試験でも合格者上位10%の成績だとか。絵、音楽、動画、テキストの自動生成もどんどん進んでいる。これからは、AI をいかに使いこなすか、というインフルエンサーが人気になるだろうことは、既に見えている。まあ、「AI を使いこなす」というか、AI に使われるというか、もう、わけがわからんレヴェルだけれども。社会が劇的に変化していくだろうが、まあ、わたしの住んでいるような田舎でそれが問題となってくるのは、いつ頃なんだろうな。
 ChatGPT で有名になった OpenAI でも、最初は AI の進歩が危険すぎるということで、意図的に秘匿して使っていたらしい。けれども、早いもの勝ちの段階になってきて、公開せざるを得なくなったという。GPT-4 は、フル機能を潤沢に使うのはかなり高額で、そういう点で歯止めをかけているのかも知れないが、そうすると AI の使用も金次第ということになってくるだろう。実際、研究段階ではもうとっくにそうなっていて、莫大な投資がされている民生品に、大学の研究室レヴェルではまるでついていけないらしい。AI でもマシンパワーはかなり、いやたぶん決定的に重要で、NVIDIA の A100 なんていう有名な GPU 搭載機は、非常に高価で知られている。
 そして、そのうち AI +ロボットの時代がすぐに来るだろう。いや、既に始まっているわけであるが。まったく、わたしのような田舎の阿呆なおっさんには、なんだかなあである。やれさて、おそがいでかんて*1、のう。
 
 
昼。曇。

 
ネッツトヨタで定期点検。待っている間、サービスで出される妙においしいコーヒーを飲みながら、『空白を満たしなさい』の続きを読む。なかなか(エンタメ的に)おもしろい。
40分くらいで点検終了。特に何もなく、オイル交換だけしてもらった。
 
帰りにカルコスに寄る。ちくま学芸文庫の新刊、チャールズ・テイラーとフリードリヒ・グルダを購入。あとは古典新訳文庫でカミュの『転落』(って知らない小説)。すべて店頭で知った本で、カルコスえらい、なのである。しかし最近読むのは図書館本ばかりで、新刊は買ってもちっとも読まないんだよなあ。
 

 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』を読み始める。なかなかおもしろいし、テイラーはまじめな人だ。しかし、テイラーのいう「<ほんもの Authenticity>という理想」なるやつが、いまひとつよくわからないな。なんつーか、立派すぎんか? 世の中には立派な<ほんもの>も居るだろうが、大部分の人間はよくもなく悪くもない、そこそこの、つまりはそれがふつーなんだぜ。「自己決定的自由」(p.52)によってすべてを決断し、理想的主体として生きられる立派な人間が居ることは否定しない(たぶん、テイラーはそういう人なのだろう)が、「周りに合わせるべし」(p.55)ってのをそんなに非難されてもね。わたしなんかは、他人を蹴散らして自分の理想だけに生きる人がもしいたら、ちょっとそういう人はかなわんと感じてしまうだろう。って、わたしのクソぶりが明らかになっただけかも知れないが笑。いや、「自分」とか「主体」なんて、欲望の束にすぎないっていうのが、そんなにまちがった見方だとはわたしには思えない。かかる欲望の束を、いかに解体していくか、だろ?

テイラーが人間は対話的な生き物だといっているのは(p.59)、確かにそうなんだよね。そして、ここでテイラーから離れれば、対話によって社会を構築していくのは、じつにしんどいということだ。我々が個々人として孤立化、断片化していくのはムリもないとわたしは感じている。つまり、ネットで誰かがいっていたとおり、できれば「コミュニケーションはしたくない」のである。
 第六章の途中まで読んだ。どうも、優秀で偉大な教師がわたしのクズぶりを論破、説教している構図になっているな。アイデンティティがどうとか(そんなものは曖昧な「記号」にすぎない)、浅はかな説教は、もーうんざり。テイラー先生立派で、さすが、結構ですなって感じ。しかしわたしは、この程度のことはとっくに考え尽くしているのだよ、ってオレ何様笑。いや、先生、立派なのはいいんですよ。でも人間は、混成的、矛盾的生き物なのだ。クズだって、やっぱり生きていかなくてはならないのだ。そのクズぶりは、この程度の説教で「論破」されたところで、解体できるものではないのだ。はいはい、論破乙、って感じ。
 第八章の「より繊細な言語 subtler language」、これはなかなかよくわかるな。これを推し進めるなら、上でのわたしの試みは誤読だったということになるかも知れない。でも、やっぱり、<ほんもの>というのは言っちゃいけない言葉じゃないか? だって、<ほんもの>を求めるなんて言うやつが、<ほんもの>であることはめったにないから。<ほんもの>というのは、あまり繊細な言葉ではない。
 
チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』読了。後半三分の一くらいはなかなかよかった。テイラーのいう「断片化」、まさにそのとおり。しかし、これはそんなにめずらしい話ではない、例えば東さんがいっていた「タコツボ化」というのとよく似ている。ただ、東さんはその「タコツボ化」を(渋々かも知れないが)肯定せざるを得なかったし、わたしもまた(一応)そうだ。
 結局本書は、本書から引用すれば「これではまるで、成功の秘訣は成功することだと言っているように聞こえます。救いのない話かもしれませんが、これが真実なのです」(p.191)とあるように、結局何がいいたかったのか、よくわからないとも感じられる。我々は誰でもここまではいくが、これ以上はなかなか進めないし、本書もそれに成功していない。
 つまりは、時代的要請として、ニセモノとして生きざるを得ない我々は、どうしたらいいんだろうということだ。だってこの時代、かしこい頭でっかちや文化的「才能」は存在するが、<ほんもの>なんてほとんど存在しないよ? ロールモデルが存在しない。悪貨は良貨を駆逐する。でも、ニセモノだって生きていかなくちゃならないのだ。
 
 
夜。
猪木先生の『地霊を訪ねる』の続きを読む。

*1:おそろしいのでいけない