豊田市美術館でゲルハルト・リヒター展


豊田市美術館へ、「ゲルハルト・リヒター展」を観に行く。東名高速を豊田ICで降り、自宅から一時間あまりで到着。よく晴れて、車内は暑いくらい。
 
開館直後に入ったが、それでも既にかなりの人たちが来ていた。一見しておしゃれっぽい若い人が多いのが目につく。さすがにリヒターは大物で、若い人にも人気があるのだな。ダサい田舎者のおっさんはちょっと場違いかなと自覚する。最近の展覧会ではふつうになった、多くの作品が撮影可で、絵にスマホを向けている人もよく見かけた。リヒターはいわゆる現代アートの人といっていいのだろう、様々な試みがなされていたが、ベタに「アブストラクト・ペインティング」と題されたような、ノイジーなタブローがいちばんだろう。モノクロームよりは、カラフルというべきか。代表作といわれる「ビルケナウ」もこの系統の作品で、アウシュビッツを絵画化したといわれるものだが、見かけ上はノイジーなタブローにすぎない。リヒターは、わたしの中の何と繋がるのだろうな。ある種の現代音楽か。
 
以下、テキトーに撮った美術館。作品はめんどうなので撮影しなかった。美術ブログか SNS でも探せばアップされているだろう。




 
近くのコメダ珈琲店豊田本新町店にて昼食。で、しばらくぼーっとして展覧会をするともなく反芻していたのだが、田舎の元気なおばちゃんたちのわいわいダベっているのが聞こえてきて苦笑する。まあ、リヒターよりはこのおばちゃんたちに、わたしは近い筈だ。展覧会を反芻するなら、車よりは鉄道でぼんやりとしながら帰る方がいいかも知れないな。
 
いまの若い人たちは(いや、わたしの世代だってそうだが)、ルネサンスから近代の絵画の蓄積を消化してから現代アートに行く、なんてことはたぶんあまりしないだろう(わたしにそれができているというわけでは全然ない)。音楽において、十八、十九世紀を飛ばしていきなり現代音楽を聴いてしまうように。でも、それでいいのかも知れない。過去をきっちり消化しておくのは望ましいことではあるが、それはあまりにもしんどすぎる、重すぎるだろう。そもそもきりがない。好みでつまみぐい、格好いい現代アートSNSで消費、それが時代に合っている。どうせといったら何だが、近代は解体されてしまうことになるのだ。
 
 
プラトンイデア論によれば、例えば机には「机性」があってそれがイデアといわれるわけだが、机の「机性」はあくまでも他との関係性の上での「机性」なのであり、机の「机性」は固定されていないことがしばしば忘れられる。(ここでいう意味の)ものの本性というものが単独で存在することはない。
 
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